道の途中で

摂食障害や、依存症、不安障害などを経て、気づいたことを書いています。誰かの苦しみからの回復のきっかけになれば。そしてこれからも未熟な私の気づきのために。

与えられることが怖いとき

私たちは幼少期からずっと

「誰かの迷惑になってはいけないよ。」

「恩は返さなきゃいけないよ。」

と聞かされて育ちます。

だから、誰かに「与える」ことはできても「与えられる」ことが上手くできなかったりします。

 

私は、その「与えられる」ことが本当に苦手でした。

不安障害で閉鎖的な状況が怖くなるのも、パニックを起こして誰かに迷惑をかけてしまうことがすごく怖かったからです。

私はどんなに迷惑をかけられても、人に迷惑はかけたくないとずっと思ってきました。

 

日本人はずっと、島国ならではの小さなコミュニティの中でお互いに助け合いながら、恩を与え、恩を返し、これまでやってきました。

その中で培われてきた自分よりも相手を重んじる精神は、貧しい時代や戦時中、戦後など混乱の時代においては、日本という国を強く引き上げていくための団結力や個々の向上心のための欠かせない要素だったと思います。

 

戦時中、当時日本の植民地だったパラオペリリュー島の戦いのエピソードなどは、自分よりも相手を重んじる日本人の魂の美しさを私たちに伝えてくれます。

 

南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ……」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

 

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

 

仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

 

船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと…… 

 

パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の 人々を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。 
そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に 避難させたのである。 


そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。 
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、 
兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という 
歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を 
出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。 

最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。

 

その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。 

戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の 亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミと ショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して 
作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。

 

(昭和40年代の毎日新聞のコラムに掲載された内容です。)

 

もちろん戦争という行為は悲惨で、あってはならないことですが、現在の日本の暮らしの中で私たち日本人は、日本人らしい魂の方向性を少し間違えてきてしまっているのかなと思うのです。

 

相手を重んじる心は、自然に生まれるからこそ美しいものであり、相手からも自分からも強制されるものではありません。

ですが、 

「相手を重んじるべきだ。」

「人に親切にしなくてはならない。」

「迷惑をかけてはいけない。」

という「あるべき思想」が学校教育でも行われ、日常生活でも相手に親切心を要求することを当たり前のように捉えている人が、あまりにも多くなっているように思うのです。

 

「あるべき思想」に基づく行為は、心によるだけのものではなく、自我(エゴ)によるものに変換されます。

そしてその自我(エゴ)は、しばしば周りの人間にまで同様の自我(エゴ)を要求することに繋がります。

 

例えばバスで老人に席を譲るとき、「あるべき自分」としてその行為をすることで、人は図らずも多くの見返りを必要とします。

その行為が自我からのものであると自分の中で認識された時、人は席を譲った老人の態度や、周りの譲らなかった人たちにも同じように「あるべき」を要求するのです。

「何故、あの老人は、席を譲ったのにあんなに偉そうなのか。」

「何故、周りの人は譲らないのか。もっと譲り合うべきだ。」

 

今の日本は、その「あるべき」を自分にも相手にも求めすぎて、がんじがらめになっているように思うのです。

そして、その「あるべき」の思考にずっと染まっていると、人は「与えられること」がとても下手になっていきます。

それは「与えること」が自我(エゴ)によるものだと、勘違いをしているからです。

 

だけど「与えること」「与えられること」に自我(エゴ)など決して必要ありません。

例え自我(エゴ)を取り去ったとしても、私たちは、本当はいつだって与えたい存在なのです。

与えることがどんなに幸せなことか、私たちの心は知っています。

 

また、これまで長い歴史の中で培われた日本人の魂は、とても美しいものです。

それは、自我(エゴ)からの行為でないからこそ、見返りを求めることのない純粋な美しさです。

私たちのご先祖様たちは、代々その美しい心を培い、今に残してくれました。

本来、日本人はどの民族よりもそんな魂を持っているのではないでしょうか。

 

自我のない「ただ与える幸せ」を自分の中に受け入れることで、「与えられること」もまた幸せな要素になります。

何故なら、自分が「与えられること」で、人はその「与える幸せ」を相手にも感じてもらうことができるのだから。

 

「与えられる」ことを否定することは、他者の愛情を受け入れないことと同様です。

「ただ与えたい」その一番の幸せを、私たちは誰からも剥奪してはいけないのです。

 

日本を愛した植民地 南洋パラオの真実 (新潮新書)

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ぼくのきみへ


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ねぇ。きみはやさしいひとだね。

いつも、みんなにやさしいね。

 

みんなのきもちをかんがえて、

だれかがかなしいときは、かなしみをなんとかしようとがんばったり。

だれかがくるしいときは、いっしょにくるしくなったり。

ひどいことをされても、あいてをせめたりしないんだ。

 

みんな、きみがやさしいことをしってるよ。

それに、おもしろいところもあるし、うまくいかなくておちこんだりもするけど、ほんとうはすごくがんばりやさんだ。

 

だけど、どうしてきみは、きみのなかのぼくにだけは、いつもきびしいのかな。

ぼくがまちがえることは、いつもゆるしてくれないし。 

ぼくがしっぱいしそうになると、すごくおこる。

ぼくがいやなことをかんがえたり、ふあんになったりすると、きみは、まるでぼくがいなくなったようにふるまうんだ。

 

だからそんなとき、ぼくはじぶんのそんざいをけさなきゃっておもうから、きみのよういしてくれたへやに、あわててかくれる。

ぼくは、ほんとうはへやからでたいんだ。

だけどきみは、ぼくがしっぱいするといけないからって、いつもへやにかぎをかけてしまう。

 

だけどぼくは、ほんとうにかくれなきゃいけないのかな。

ぼくは、そんなにだめなにんげんなのかな。

 

きみがそうやっておこったり、ぼくをゆるしてくれないとき、まるできみは、きみがちいさいときのおとうさんやおかあさんみたいだ。

そしてぼくは、ちいさいときのきみみたいだ。

 

だけどね、このまえ、かみさまがおしえてくれたんだよ。

ぼくは、ほんとうはすごくすごくいいこなんだって。

それにね、ぼくにはまちがえることも、しっぱいも、ほんとうはなんにもないんだって。

 

いやなことをかんがえても、ふあんになっても、ぼくにはかくれるひつようなんてないんだ。

たべたいものは、たべていいし、くるしかったらくるしいときにくるしいっていえばいいし、ふあんなときはふあんになってもいいし、さみしくなったら、いつでもあまえていいんだよ。

ぼくは、ううん、だれでもそうなんだ。

 

ほんとうは、ぼくはしってるよ。

きみはぼくを、ずっとずっとまもろうとしてくれてたんだよね。

むかしのきみはまだとてもちいさかったから、きみができるせいいっぱいのほうほうでぼくをまもってくれた。

だから、ぼくはいままでいきてこられたんだ。ありがとう。

 

だけど、きみは、ぼくをまもるために、もうどんなほうほうだってえらべるよ。

だって、きみはもうじゅうぶんおおきくなったんだから。

 

そして、ぼくもきみといっしょにせいちょうしてきた。

だから、もうまもってくれなくてもだいじょうぶ。

 

きみはしんぱいしょうだから、

ぼくをそのままにするのが、まだすこしこわいことをぼくはしってる。

それに、かっこつけちゃったけど、ほんとうのこというと、ぼくもすこしこわいんだ。

だから、そのときはかみさまにたよって、だいじょうぶだっていってもらおうよ。

 

ほんとうはね、たぶんみんなそうやってのりこえていくんだよ。

だけど、ぼくはながいあいだへやにかくれてたから、やりかたがわからなくて、すこしきんちょうしているだけなんだ。

 

だから、いっぽずつでいいよね。

きっとしっぱいもするけど、そのときはしょうがないなぁっていっしょにわらおうよ。

きみがいつもだれかにそうするみたいに、ぼくにわらってよ。

 

そして、またすすめばいいよ。

だって、まちがいなんてないからね。

ゆっくりゆっくりすすもう。

かみさまといっしょに。

ちいさなへやのかぎをあけて。

おおきなひかりにむかって。

自分の外側に神はいない

私たちは、しばしば自分の外側に正しさを求めます。

私は、おそらく人生の半分はエゴの塊のような人間だったので、今でも誰か著名な人や説得力のある人の意見に、自分の正しさを求めたくなることも多々あります。

ですが、本当の正しさは自らの神に問うものです。

 

スピリチュアルが、いわゆる他力本願な世界、ふわふわとした逃避の世界だと思われてしまう理由は、おそらく、自分の中の神ではなく、スピリチュアルな教えに自らの正しさを委ねてしまう人が多いからなのではないかと思うのです。

 

例えば、ある女性は夫と上手くいかない悩みから、あるスピリチュアルの先生に傾倒し、その教えに従うようになりました。

その先生が言うには

「全ての人間は、自由。自由に生きるのが正しい。だからあなたの生きたいように生きれば良いし、離婚したかったらすればいいの。」

だから、その女性は夫と別れようと思います。何故なら、夫は自分の自由を阻害する存在だから。

「子どもなんてどうだっていい。だって、私は自分の生きたいように生きていいのだから。」

だけど、彼女が従っているのは「彼女の神」ではなく、その「先生の神」です。

 

もし、彼女が自分の内面に問い、自らの内に沿った選択をするなら、周りをもう少し見渡すことができるのではないでしょうか。

彼女は、夫とどうにか理解し合うことを選ぶかもしれないし、それでも、どうやっても上手く行かず、互いにとってまた子どもにとって悪影響だと感じられたなら、離婚を選ぶかもしれません。

 

ですが、離婚を選んだとして(選ばなかったとしても)誰かをそこで傷つけてしまったり、本来学ぶべき学びを学ばなかったのなら、それは自らが背負わなければならないカルマ(責任)になります。

 

だけどその決断が、誰かの神やエゴでなく、自らの神に従うものであるならば、私たちは喜んでそれを引き受けることができます。

または先生の信仰に沿う決断をしたとしても、それが自らの内に問い得た答えであるなら、それに付随する全てのカルマ(責任)は、彼女にとって必要な学びになります。

 

スピリチュアルなヒーリングなども同様です。ヒーリングを受けて、すぐに幸せになる、何のアプローチもなく問題が解決することはあり得ません。

ヒーラーの役割は、問題を抱える人をその人の内に存在する神の元まで導くための手助けです。傷がある部分を一時的に覆う絆創膏です。

最終的な判断は本人が自らの神に問い、癒しは自らの神を通して受け取るものです。

 

オウムなどの残虐な事件は、正に自らの正しさを外部に求めた故の犯罪だと思います。

教徒たちは麻原という神に従い、だけどその神(麻原)は自らの神ではなく、エゴに従っていたのでしょう。

 

カルマは、私はあると考えています。

でもそれは、決して外部から与えられるものではなく、自らがつくるものです。

人の本質が愛だと証明できるのも、人がカルマを自らつくり、背負う存在だからです。

 

私たちは、自らが愛であるとずっと気がついています。

それに反する行為や、作り出してしまった怖れや悲しみの感情を、本質(愛)ではないものだと私たちの魂は認識しています。

だから、自らそれをカルマとして背負い、それを解消するための様々な出来事を乗り越えていきます。

いつか、本質(愛)に戻るために。

 

私たちはしばしば間違えます。

ですが、あなたの心の中に存在する神は、間違えることは決してありません。

だけど、それはあなたの神だからです。

あなたの外側に神はいません。

神はいつも自らの内にだけ、存在しています。

私たちは生きる世界を選ぶことができる

書籍「奇跡講座」にもありますが、私たちが普段目にしているものは、全てが過去のものです。

奇跡講座 テキスト編

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私たちは、いつも過去に学んだ概念により物事を見ています。

手元にある鉛筆が、字を書けるもの、尖らせて使うものだと知っているのも、その湯呑みがお茶を飲むために使い、割れてしまうものだと知っているのも、ものを認識する際に過去に培ったフィルターを通すからです。

 

例えば、恋人から記念日にもらったマグカップと、100均で何となく購入したマグカップ、どちらが大切か、そのマグカップにどれだけの意味を持たせるかも、全て自分です。

私たちはいつも、ものごとを「ありのまま」に見ることは、出来ないのです。

 

それはまた、私たちが生きているこの世界も同様です。

私たちが世界を、周りを認識するとき、それは過去に自分が経験し、これまで得た概念や感情というフィルターを通しています。

 

認められ尊重され、自由に生きてきた過去を持つ人は、この世界が優しさに満ちているかもしれません。

逆に、悲しみの多い過去を持つ人は、いつも自分を見捨ててしまうような冷たさをこの世界に感じるかもしれません。

 

怒りの多い過去を持つ人は、世界は信用ならないものだと、また、人生に怖れを感じてきた人は、世界にとって自分は無価値だと思うかもしれません。

 

だけど、それは決して「ありのままの世界」ではありません。

大切なマグカップにたくさんの意味付けをするように、この世界に意味付けをしているのは、間違いなく自分なのです。

 

そして、私たちが経験してきた過去から得た認識、私たちが感じてきた感情は、本当に正しく、またそう感じなくてはならないものだったのでしょうか。

例えば、小さな子ども時代、周りで起こることの責任をあなたが自分が悪かったのだと捉えたとして、それは間違いのない事実でしょうか。

誰かに「あなたなんかいないほうが良かった」と言われたとして、それは本当に事実だったのでしょうか。それは、あなたが背負うべき悲しみだったのでしょうか。

 

私たちが普段見ているこの世界は、「ありのまま」でもなく、そして「不変」でもありません。常に移ろいゆくものです。

私たちが視覚で捉える世界では、長いものが短いものになり、大きいものが小さくなり、悲しみが喜びになり、正しいものが間違いになります。

そのような移ろいゆくものに、私たちは正しさを求めるべきなのでしょうか。

 

「私は朽ちてゆくものしか見ていない。

私は永続するものは、何一つ見ていない。

私が見ているものは実在しない。

私が見ているのは、復讐の一形態である。

これが、私の本当に見たい世界だろうか。」

(奇跡講座 ワークブック編より)

 

私たちがこれまで、あらゆるフィルターを通した存在しない世界を見てきたように、私たちはまた、自らが住む世界をいつでも選ぶことができます。

 

もし私たちが、フィルターを取り去ることを選ぶのなら、そこに残るものは神と、私たちの魂、愛という不変なものだけです。

視覚は、過去の感情や、培われたあらゆる概念を完全に捨て去ることは出来ませんが、それらのフィルターのない本当の世界、私はそんな世界を選んでいきたい。

その世界で、生きていきたいと思うのです。

心の病の原因

考えてみると、いわゆる心理的な病の原因の殆どは、自我(エゴ)とありのままの自分との争いによるものだと思うのです。

 

私は、アルコールに依存的になっていた時期も長くありましたが、きっかけは、内気で自信のなかった自分が、お酒を飲んだときには饒舌になり、自分に自信がみなぎる感覚を覚えたからです。

その感覚を忘れられなくて、悲しいときも、怖れるときも、何かから逃げたいときも、いつもお酒に頼りました。

その時だけは、弱い自分が、「そうありたい強い自分」でいられるような気がしたからです。

 

摂食障害や、不安症もそうですし、また鬱になる人も「こうあらねば」という自我(エゴ)が強く、弱かったり、できない己を認められないために、それらに陥ります。

 

私たちは、ありとあらゆる方法を使って、これまで「自我(エゴ)の自分」を本当の自分の姿だと思い込もうとしてきました。

だけど、心は決して騙されてはくれなかったのです。

「ありのままの自分」に気づかせるために、鬱、不安症、その他沢山の障害を私たちに送ってきました。

 

障害を抱えることは、とても辛いことです。

だけど、あなたの心は「自我(エゴ)の自分」を自分とするよりも、その辛い障害を抱えることを選びました。

 

そう考えると、こころのシステムは本当にすごいと思うのです。

「ありのまま」という魂の尊さを、誰に教えられるでもなく、私たちはずっと知っていたのです。

 

そして、同時に自我(エゴ)が本当は、偽りのもの以上にはならないことも私たちは知っていました。

そのような空虚なものに、真実を求めることが、間違っていることを私たちのこころは、ずっと教えてくれていたのです。

 

また自我(エゴ)は、偽りであると同時に、真実を見えなくしてしまうものです。

 

「ありのまま」のあなたは、本当はとても素晴らしい存在です。

だけど、その素晴らしさを妨げるものが「自我(エゴ)」です。

あなたが、自分を守ろうと、自分を大きく見せようと身につけていた「自我(エゴ)」こそが、あなた本来の光を妨げていたのです。

 

私たちは、何故「自我(エゴ)」を身につけることが、必要だったのでしょう。

それは、不安や怖れからの防御です。

そのままでは愛されないのでないかという不安、誰かに傷つけられるのではないかという怖れ、様々な不安や怖れを「自我(エゴ)」という鎧を被ることで、見えないものにしようとしたのです。

 

ですが、不安や怖れは無くなりません。

何故なら、あなたが「自我(エゴ)」の鎧を被っているから。

それを被り続けている限りは、「それを被らなければ生きていけないほど、怖れているあなた」をあなたに提示し続けることになるのです。

 

それは、まるでいたちごっこです。

怖れ→防御→自我(エゴ)→不安→怖れ

自我(エゴ)は、ずっとこのループから抜け出せないものです。

 

そう考えると、苦しさから自分を解放する唯一の方法は自我(エゴ)を脱ぎ去ることではないでしょうか。

自我(エゴ)を脱ぎ去る作業は、とても覚悟が入ります。何故なら、私たちはそれが自分の身を守るものだと、ずっと思い込もうとしてきたから。

 

でも、本当は自我(エゴ)にそんな作用などないのです。

自我(エゴ)を脱ぎ去ったとき、そこに残るものは「本来のありのままのあなた」です。

自我(エゴ)を持たないで生きることは、「ありのままで生きていくことができる怖れのないあなた」をあなたに提示してくれます。

そうなったときに、人は確実に怖れから解放されていきます。

そして、その時初めて、自我(エゴ)に隠されていた本当のあなたの素晴らしさに、あなたは気づくことができます。

 

私は、言わば自我(エゴ)の塊のような人間でした。

沢山の鎧を着て、何が本当の自分かすら分からなくなっていました。

今でも、それらに振り回されることも多々あります。

それでも、その鎧を大切に抱えていたころより、私はずっとずっと生き易くなり、そして自分の本当の良さに気づき、自分を愛することが出来るようになりました。

 

それは、私だったからでは決してありません。誰でもそうなのだと思うのです。

もし、その鎧を脱ぐことができないのであれば、それを阻むものは何でしょうか。

 

「強くなきゃいけないよ。」

「こうあらねば、絶対にダメだ。」

「こうあらねば、愛されないよ。」

「失敗するあなたは、許されないよ。」

鎧を脱ごうとする時に、あなたに何度も囁きそれを阻止しようとする声、それは、本当にあなたの声でしょうか。

 

私たちは、本当は最初から今までいつも完璧だったのです。

あなたの自我(エゴ)がどんなにそれを認めなくても、あなたの魂は、もうずっとそのことに気づいているのです。

 

誰かのためから、自分のための人生へ

小学生の時、私は作文で小さな賞をとりました。確か「ゴミ拾い」についての作文だったと思います。

幼少期から、私には自己承認(ありのままで認められる)の経験がありませんでしたので、周りに認められたいという思いで、いつも必死でした。

 

その作文でも、誉めてもらえるような言葉を選び、大げさに、正義感たっぷりな文章を書きました。

今思い出しても、恥ずかしいほどです。それは、ただただ周りの期待に応えたい為の作文でした。

 

私の予想では、それはひっそりと先生に誉められる程度で終わる予定でしたが、図らずしも賞に選ばれて、広報に載りました。

先生は

「素晴らしい作文だ。」

と皆の前で大声でそれを読み上げました。

私は穴があったら入りたいような気持ちでいっぱいでした。だって、嘘で埋め尽くされたその文章は、私の気持ちなんかでは全くなかったから。

 

それでも、他人に評価されたことは少し嬉しく、帰ってからの母の態度に淡い期待をしました。

もしかして、今度だけは誉めてもらえるかもしれない、と。

だけど、母から言われたことは、

「おべっかなんか使って。本当にみっともない。」

という言葉でした。

 

私は、この出来事をずっとトラウマのように抱えてきました。

それは、母から傷つけられた、というものではなく、自分の価値を決定づける出来事だったという認識としてです。

「ありのまま」で認められないから、「母の期待に応える自分」を演ずる、でもそれすらも認められることはない、私はどうやったって認めてもらえないのだ、という認識です。

 

足掻けば足掻くほど、母の求める自分とは離れていくようでした。にも関わらず、そんな出来事がいくら積み重なっても、その追及を手放すことは出来ませんでした。

私はどうあっても、何を言われたとしても、母に認められる自分になりたかったのです。それは、自己承認のためでもあります。

ですが、それだけではなかったと今となっては思います。

私は母の不幸を感じ、母を幸せにしてあげたかったのです。

私が、母の求める自分になることで、それが出来ると思いこんでしまった。

でも、そうなれない自分に、この世に生きていたくないほどの無力さを感じてきました。

 

敏感な子どもたちは、親の欲求を不思議なほど敏感に感じとります。

岡田尊司さんの著書「母という病」の中でも書かれていますが、子どもから親への愛情は、親から子どもに向ける愛情とは比にならないくらい大きなものです。

子どもは、自分を無くしても、どんな犠牲を払っても、親が幸せであることを望むのです。

ですが、私が実際に心の病を抱え、分かったことは、人は人を幸せには出来ないということです。

 

もちろん、良い心のあり方は、人から幸せを受け取ることを可能にします。

だけど、内面が不幸なとき、いくら外から幸せが与えられても人は不幸なままです。

幸せになるかどうかは、本人の心のあり方であり、本人以外は変えられないし、それは本人が取り組むべき人生の問題なのだと思います。

もしかしたら、私はそれを知るためにも、心の病を抱えてきたのかもしれません。

 

「私たちはいわば二回この世に生まれる。

一回目は存在するために。

二回目は生きるために。 ルソー」

ルソーは思春期からの教育について語りましたが、心の病からの脱却のための言葉のようにも、私は感じます。

 

存在するために、「親に、誰かに応えたいありのままでない自分」の人生から、

生きていくために、「魂の求めるありのままの自分」の人生へ。

もう、私たちはそうしたい自分を許すべきなのです。

いいえ、本当は最初からそうあれば良かっただけだったのでしょう。

それは、諦めや無力などでは決してありません。

人と人との真の関係性を築き、それを学ぶことができるたったひとつの方向性なのです。

生き辛さを抱える人へ

精神科的な障害や症状がない人や気づいていない人の中にも、生き辛さを抱えている人は多いと思います。

私は幸いにも、摂食障害や不安障害など目に見える形で、そのブロックが浮上してきてくれましたが、ただあるがままにいられない、心が落ちつく場所がないという方も多いのではないでしょうか。

 

特に男性は、強く在れない自分を否定する傾向にあるため、その違和感に蓋をしてしまうこともあるかと思います。また、優しく、正義感の強い方ほど、心が不安定である責任を自らに起因します。

またそれは、実際に様々な精神的障害を持つ方も同様で、そうなってしまった原因を自分だけに求め、自分を責め続けている人も多いように思います。

 

ですが、それらの自己否定は、更に心を不安定にさせ、結果、生き辛さを増長させてしまいます。

私は、専門家などではありませんが、仕事上多くの方と気持ちを深くまでお話をさせて頂きます。それから分かったことは、それらの障害を抱えている人の多くが、幼少期において親子関係に問題を抱えていることです。

 

(017)母という病 (ポプラ新書)

(017)母という病 (ポプラ新書)

 

 

(051)父という病 (ポプラ新書)

(051)父という病 (ポプラ新書)

 

私は、この本を最近読みましたが、今まで私が抱えてきた感情や問題の全てがそこに書かれていました。まるで、自分をモデルにしたのかと思うほどに。

だからもし、もう少し早く出会っていたら、そこまで様々な症状に苦しみ、心身を傷つける前に自分を助けてあげることが出来たのでは、と思うのです。

不安の正体が分からない、何が原因なのか分からないけど、とにかく苦しいという方には、是非読んで頂きたい本です。

心がすごくラクになると思います。

 

著書の中では、親の不安定さがどれだけ子どもに負の影響を与えるのか、不安定な育て方によって子どもの精神状態が、その生き方や対人関係においてどんな形のブロックとして現れてくるのか、とても詳しく載せられています。

それは、正に正論で、私はそこに書かれているままのブロックの、その多くを経験しながら生きてきました。

 

ですが、著書の言うその原因の答え=親の育て方に子どもが生き辛さを抱える殆どの要因がある、というのは少し違うかなとは思うのです。

何故なら、同じように育てられたにも関わらず、心を病む人、病まない人がいるからです。

 

何故、その差が生まれるかというと、持って生まれた性質や、それぞれの魂の目的=この世で何を成し遂げたいのかによっても違ってくるのかもしれません。

 

私の夫の父親は、いわゆる毒親タイプです。自己中心的で、常に人を自分に従わせようとし、ありのままを認めない発言を繰り返します。

ですが、夫は自己卑下に陥ることなく育ち、精神面も強いと思います。

最初は不思議でしたが、長く一緒にいて徐々にその理由が分かってきました。

 

それは、共感力の違いです。

夫は、とても共感力が弱いのです。自他の境界線をしっかりと持ち、他者の感情や欲求に引きずられません。

逆に、共感力の強い人は、他人の感情を自分の感情のように捉えてしまったり、人との境界線を築きにくいことで、そこに存在する負の影響を全て自分のものとして吸収してしまいます。

 

ですので、幼少期から、親の感情が分かり過ぎてしまうため、親が問題を抱えていた場合、その問題を子ども自らが抱え込んでしまうのです。

 

「敏感すぎる自分」を好きになれる本

「敏感すぎる自分」を好きになれる本

 

 

エンパシー 共感力のスイッチをオン/オフしよう

エンパシー 共感力のスイッチをオン/オフしよう

 

私は、スーパーで他の赤ちゃんが抱っこしてほしくて泣いているだけでも、同じように泣けてくる強い共感力の持ち主です(笑)

そのような特徴を持つ人は、それを自覚するだけでも、かなり生き易くなるように思います。

 

これらはマイナス面でもありますが、共感力はかけがえのない才能でもあると私は思っています。

高い共感力によって、映画などのエンターテイメントをより楽しむこともできますし、書物や音楽などから、色鮮やかな世界を自らに取り込むこともできます。

他者の感情を理解することで、それをプラス方向に生かせれば、人との関わりをとても深いものにすることもできます。

 

私たちがこの世に生を受けた理由、魂の目的を知ることは、容易ではありません。

ですが、今まで自分が置かれてきた状況を否定せず受け入れることで、自ずと見えてくるものがあるのかもしれません。

 

全ては必然です。何故、この親に生まれ、その経験をしてきたのか、苦しんできたのか、そのブロックが必要だったのか。

おそらく、それ抜きでは無し得なかった魂の学びが、私たちにはあるのです。

 

そうすることを望んだ自らの魂を信じ、ネガティブだった経験だけに目を向けるのではなく、その本来の学びを模索することで、過去のネガティブな経験はポジティブな学びへと変換されます。

私たちは、未来を変えられるし、きっと、過去さえ変えられる力があるのです。