道の途中で

生き辛さ、不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

インナーチャイルドが苦しむ要因

インナーチャイルドの癒しをお手伝いさせて頂くことで、少しずつ分かってきたことがあります。

 

私は今までインナーチャイルドが癒されていない要因は、親などの外部の環境の影響が大部分を占めると思ってきました。

親から子への言動に問題が大きければ大きいほど、子どもがトラウマを抱える比率が上がり、インナーチャイルドが傷つくのではないかと考えていました。

 

もちろん、それらの影響はとても重要です。

ですが、それよりも持って生まれた本人の気質や性格によるもののほうが、さらに大きく影響するのではないかと今は感じています。

 

傷の深いインナーチャイルドを持つ多くの人の特徴は、人の気持ちが分かりすぎる、感受性の強いいわゆるエンパスタイプです。

人の痛みや苦しみを自分のもののように感じ、他者との感情の境界線を引きにくいという特徴を持っています。

 

このエンパスという特性は、後天的なものであるという意見もあります。

相手の気持ちを思いやらなければならなかった環境、自己承認を得るために親の顔色を伺わなければならなかったような環境においてその特性が育まれるという意見です。

また日本のように、周りとの協調性を重んじる文化圏においては、エンパスの割合は他国より多くなると言われます。

 

ですがどんなに酷い外部環境、例えば虐待などの環境においてもさほどトラウマを持たず生きていける人がいるように、エンパスになるための環境をいくら与えられても全くそうならない人もいるのです。

逆に何ら問題のない環境に育ってきても、その共感性の強さから深刻なインナーチャイルドを抱えている人もいます。

 

そう考えると、やはりエンパスは持って生まれた特性ではないかと思うのです。

周りの環境は、その特性を増長していく要因に過ぎないと私は考えています。

 

では、エンパスであることがインナーチャイルドにどう影響していくのでしょうか。

 

生まれてから幼少期にかけての子どもにとって、親という存在は計り知れないほど大きなものです。

自分の命を繋ぎ、世界とは何かを教え、自分という存在の価値を決定づける大切な存在です。

 

その親が悩んだり苦しんでいた場合、共感性があまり高くない、エンパスの特性を持たない子どもは、その苦しみを親自身のものだと判断できます。

自分の感情と相手の感情の間に、境界線を引くことができるのです。

ですが、その境界線が分からないエンパスの子どもは親の苦しみを自分の苦しみと同一化します。

 

もちろんそれは苦しみだけではなく全ての感情においてです。

例えば親が喜んでいてもエンパスの子どもは自分の喜びのようにそれを感じます。

 

ですからエンパスの特性を持つ子どもの内面はいつも大忙しです。

いくら自分に幸せなことがあったとしても、周りのエネルギーがネガティブな場合、それらを読み自分のものと同一化するため、自分の幸せすら分からなくなるのです。

 

そこでようやく影響してくるのが、周りの環境です。

周りが、主に親が問題を抱えていた場合、エンパスの子どもへの影響はそうでない子どもに比べ、よりネガティブになります。

 

そのような条件下において、子どもが優先すべきは、いつしか自分よりも常に親の感情となっていきます。

親の感情を読み、自分が認められているか否かが、自分の存在の否定や肯定に繋がる全ての要素となります。

 

これは自己保身のためだけに起こる現象ではありません。

以前のブログでも書いたように、子どもから親に向ける愛情は、親が子どもに向ける愛情よりもずっとずっと深いものです。

子どもにとって、お母さんが幸せであることは、子どもが自覚しているしていないに関わらず、自分のそれよりも大切なものなのです。

 

そして親が幸せでないとき、幸せにできない、満足させられない自分の価値を、子どもは自ら下げていくのです。

(017)母という病 (ポプラ新書)

(017)母という病 (ポプラ新書)

 

そしていつしかそれが固定された潜在意識となり、不安や怖れ、自己不信感へと繋がっていく。

それが、インナーチャイルドが苦しむ根本原因ではないかと思います。

 

ですがその自己価値の認識は、もちろん正しいものではありません。

この世界の知識や生命力がまだ乏しい小さな子どもが、間違って身につけた怖れからの防御です。

そして、怖れという感情の裏にあるものは常に「愛」です。

私たちはいつも愛が欲しかった、そして愛を与えたかった、ただそれだけだったのではないでしょうか。

 

またエンパスであること、共感性が高いことは決して否定される能力ではありません。

それは使い方によっては素晴らしい才能です。

喜びも悲しみも受けとる力が高ければ高いほど、それは新たなものを生み出す力になります。

芸術家や音楽家なども、高い共感性がなければ心に響くような作品を生み出すことはきっとできないでしょう。

 

インナーチャイルドが傷ついて動けなくなっている人は、その優れた共感性の大部分を外部にいる他者に合わせています。

だから、自らの感情をそのまま感じることができなかったり、またそれに気づくことすら上手くできなかったり、そもそも自分の感情を受けとめる行為そのものに罪悪感や不信感を持っていたりします。

 

私たちは、ただその特性の使い方を間違えてきただけなのです。

本来、その鋭い共感力を使わなくてはならない相手は親でもなく、他者でもなく、何よりも自分、そして内に存在する神だけです。

 

そして、全ての感情の責任は自らにしかないことを私たちは知るべきです。

それは、相手を放棄することではなく自分を保護する防御でもなく、相手への自分への本当の愛情であり優しさです。

自らの感情の原因を相手に起因させたり、相手の感情の責任を自らのものと受け止めコントロールしようとすることは、それぞれの人生の学びを妨害しようとしていることと同様です。

 

悲しみを深く悲しみ、痛みを強く受け止める力があるからこそ、それらを昇華し光に変える力をもまたエンパスは持っています。

それを行うべきは、自らの感情だけでなくてはなりません。

それは、決して何かを成し遂げたり形にする必要はなく、ただそう在ることが本当の意味で自分を救い、相手を救うことができるのだと、私はそう考えています。

過去と融合すること

私たちの肉体は、過去の記憶の塊、潜在意識の塊です。

私たちが肉体の眼で、見ているものは「今」ではなく、もう「今ここ」に実在しないもの。

幻想のもの。

 

ならばこの「怖れ」を、もう「無いもの」として見ないようにすれば良いのだろうか。

この「不安」を、「無いもの」を見ようとするエゴの働きなのだと笑い飛ばせば良いのだろうか。

 

「過去の私」は、いつも今のこの肉体を使って、幻想の怖れに、不安に目を向けてほしいと訴える。

何度も何度も。

そうしないと安心できなかったから。

違う。そうしたっていつも安心などできなかった。

でもそうするしかなかった。

 

私にはそれを笑い飛ばすことができない。

彼女の苦しみが今もまだ伝わるから。

 

だけど「過去の私」は、今の私に一緒に苦しんで欲しいのだろうか。

怖れて欲しいのだろうか。

それはきっと違う。

彼女はただ願っているだけ。

「今の私」がもう苦しまないことを。

教えてくれているだけ。

「今の私」が傷つかないための小さな間違った方法を。

 

ならば「今の私」が彼女にしてあげられることは何だろう。

それは、きっと「今の私」が傷など負わない存在であり続けることだ。

彼女が傷だったと思っているものを、それは傷なんかじゃなくかけがえのない経験だったのだ、と教えてあげることだ。

そして、それを「今の私」が本当のかけがえのない経験へと昇華していくことだ。

 

彼女は傷を受けたと私に伝える。

だけど、私たちは損なわれることはないし、今まで一度だって損なわれたこともない。

「今の私」が揺るぎなくそうあれば、「過去の私」は「今の私」に溶けていき、ひとつになれる。

 

肉体の目を閉じて魂の存在になるとき、私たちは内に完全なる光を見つけることができる。

それはいつもそこにあり、これからもあり続ける。

私はその光でありたい。

「過去の私」のために。

そして「今の私」のために。

自分に対する責任とは

ここのところ、自我を押し付けて来る人、相手を卑下し自分の正当性を主張する人との出会いが何人か重なり、それは何故なのかなと考えていました。

 

実際のところ、そのような人は私が最も苦手とするタイプで、かなり気も滅入ってしまっていました。

ですが、以前のブログでも書きましたが、目の前の人は全て自分の合わせ鏡の存在です。

苦手だと感じる人、拒否感のある人は自分の中の怖れを象徴してくれる存在なのです。

内面の怖れを写し出す鏡 - 道の途中で

 

私が、何故そのようなタイプがそこまで苦手なのかと考えたとき、おそらく私の母親に似ているからだということに行き着きました。

その深層にあったのは、その人達に対するネガティブな感情ではなく、幼少期より母親から否定され、信頼や肯定を得ることが出来なかった私の未消化な感情でした。

 

私は、ただ自分に信頼や信用を得たかっただけなのだと思います。

ですが、何よりその感情を抱えたままの私自身が、自分を信頼するに値しない存在なのだと位置付けてきてしまったのかもしれません。

 

幼少期から、親から、周りから否定されて育った子どもの多くは、同じように自分という存在を否定します。

親にされたことと同じ価値に自らを位置付けます。

もちろん小さな子供にはそうすることしかできなかったのでしょう。

ですが、成長して尚、自分を過去において外部から与えられたままの存在と位置付けていることは、自分に対する怠慢なのかもしれません。

 

私たちは外側に多くを求め、外側から期待される自分で在れないことを時に責めます。

自分は愛されてこなかったと感じている人ほど、その傾向は顕著です。

 

ですが、私たちが求めなくてはならない自分は何よりも自らの内にあります。

謝罪すべきは、外部から期待される自分になれなかったことではありません。

それらを自らの内に求められなかったこと。

それゆえに外部に依存させてきてしまったこと。

そして、いつも誰よりも信じてあげなければならなかった自分をこんなにも長く信じてあげられなかったことを、自分自身に謝るべきなのです。

 

そして、誤りのない正しい価値観を自らに与えていくこと、それが大人としての自分に対する責任ではないかと思うのです。

 

この世は本当にうまくできています。

私たちに必要な学びは、必要なタイミングで全て与えられています。

そこで目を背けてしまえば、その学びは何度でも私たちの前に現れますが、立ち向かい学びきれば、次のステージに進むことができます。

私はそれが、スピリチュアルの言うところの本当の「引き寄せ」なのではないかなと思うのです。

マディソン郡の橋に学ぶ愛

スピリチュアルを学んでいると、肉体の欲望の声を内の声と間違えている事例によく出会います。

その欲望を魂の声と混合してしまうと、その欲望のままに生きることが正しいのだと人は錯覚します。

 

私が、映画「マディソン郡の橋」を初めて観たのは20代の頃でした。

当時お付き合いをしていた彼と一緒に観たのですが、観ている最中から帰り際まで何とも言えない気恥ずかしさを覚えた記憶があります。

おそらく彼も同じように感じていたのかもしれません。

お互いに映画については何も話さず、その話題を避けるようにして帰路につきました。

 

美しさも若さも失った老楽の恋、運命のと言いながら安泰を選び、楽な道に逃げる人生のようにその映画を捉えてしまった私は本当に若かったなと思います。

 

私たちは、まるで自分の人生は全て自分で描いていけるものだと、またそうでなくてはならないと教えられてきます。

もちろん、その枠組みの一部分は自分で作っていけるのかもしれません。ですが実際は、与えられるもののほうがはるかに多いのではないかと思うのです。

 

その中で私たちはたくさんの責任を背負うことを余儀なくされます。

それは肉体としての自分と捉えれば、不本意なものが大部分となるのかもしれません。

ですが魂として捉えれば、その不本意さの中にこそ多くの学びがあります。

 

その与えられたひとつひとつを受け止めながら自らの内の本質を知り追求していくこと、それが本来あるべき人生のかたちなのかもしれません。

 

内の声を聞く、魂に生きるとは、外側に何かを求めることでは決してないと私は思います。

内が求める自分で「在る」ことだと。

ただそう「在る」ことを実現していくことだと思うのです。

 

フランチェスカはロバートと一緒になることを選ばず、目の前の責任を選びました。

いつか愛が変わってしまうことが恐いからと彼女は言いました。

ですが、それよりも彼女にそう選択させたのは、責任から逃げないという彼女の在り方です。

 

私たちは魂の学びから逃げることはできません。おそらくそこでロバートとの愛を選んだとしても、また違う環境において同様の学びが彼女にもたらされるのです。

 

自らの内にある魂の尊さを信じ、自らがありたい自分で「在る」こと。

彼女は肉体的な欲望を混合することなく、そう「在る」ことを選んだのだと思います。

 

肉体的な愛情はやがて形を失います。

ですが、魂の愛は不変的なものです。

その魂の愛の強さを信じたからこその彼女の選択に、私は心をうたれます。

人生にはたくさんの選択が迫られます。

選んだ道を後悔してしまうときもあるかもしれません。

だけど、どんな時も内の声が求める私でただ「在りたい」そう願うのです。

 

マディソン郡の橋(字幕版)

マディソン郡の橋(字幕版)

 

 

 

起こることの意味を知る

まだ幼いころ、ものごとは必然として起こり、それはただ受けとめ流れていくのを見守るものでしかありませんでした。

 

それがいつしか私たちには自分でコントロールできるもの、すべきもののように感じられるようになるのです。

そして、人はその意味を間違えていきます。

起こることの多くは、自分が道を間違えた故の罰であり試練なのだと。

 

その思考は、同時にものごとの真の核心の部分と向き合う心を停止します。

そして、その罰や試練と考えるものを少しでも遠ざけるための生きかたを模索するようになるのです。

 

だけど、それは本当に罰であり試練だったのでしょうか。

 

幼いころ、私たちは世界の一部でした。

それは全てがただそこにあり、ただ起きていたのです。

だけど成長するにつれ、私たちの思考は世界からどんどん分離していきます。

 

その分離した肉体だけが「私」となったとき、私たちには「私」以外の全てが得体の知れないものとなります。

起こることの全ては、戦わなくてはならない脅威となるのです。

 

だけど肉体を離れ、魂として考えたとき、それらは脅威ではなくチャンスになります。

試練ではなく愛となります。

 

「肉体の私」と考えれば、私は人生の半分近くを試練と罰の中で過ごしてきました。

愛情に餓えた幼少期、摂食障害や不安障害、依存性を抱えた青年期から中年期、私はその試練から逃れようとずっと足掻いていました。

 

だけど「魂の私」と考えれば、それは私にとって全てが人生に必要な手かがりでした。

愛を知り、魂の求めるものを知るために必要なチャンスでした。

私はそれに気づくことができなかった。だからそれらは必然としてずっと私の側に存在し続けたのです。

 

「肉体の私」であることは、ものごとの本質から目を反らし続けます。

私はずっと錯覚していました。

私は戦っているのだと。だけど実際は目を背け、逃げ続けていただけでした。

 

統合失調症で長く苦しんできたある女性は私に教えてくれました。

「病気はギフト」だと。

それは彼女が病気を克服したからではないのでしょう。

それが自分に与えられた本当の意味に気づいたからなのだと思います。

 

私たちには全てが与えられます。

誰もが人生で抱えるさまざまな問題、それはその人にとってどうしても必要なものです。

必要である限りは、どんなに手放そうとしても出来ないのです。

 

その問題がどこからきて何を求めているのか、内の声を聞けば必ず見えてきます。

手放すべきもの、気づくべきものが。

それを知るとき、私たちは人生において一度も試練はなかったことに気づくのかもしれません。

 

インナーチャイルドを癒す意味

インナーチャイルドを癒す、というと、現実の問題からの逃避のようなものだと思う方もいるでしょう。

私も以前はそう思っていました。

目の前の問題を解決することに向き合わず、過去に逃避や責任転嫁をすることだと。

 

だけど、インナーチャイルドを癒す本当の目的とは、目の前の問題を歪んだ潜在意識の視点からではなく、正しい視点で解決するためのものです。

逃避ではなく、正しく問題に向き合うために必要なプロセスです。

 

私たちは、通常2つの意識を持っています。

普段認識することができる顕在意識と、自分では気づきにくい深層に潜む潜在意識。

私たちが持つ固定観念や世界観のほとんどはその潜在意識が強く影響しています。

 

そしてその潜在意識の大部分が培われてきたところが、私たちがこの世界とは何かを学んできた幼少期なのです。

 

その幼少期に何らかのトラウマや痛みを経験することなく過ごしてきた方はほとんどいないと私は思います。

周りの大人から冷たい言葉や暴力などを受けてきた人もいるかもしれません。

そうでなくても、親が忙しくて充分に愛情を感じることができなかったり、親のような役割を担うことを余儀なくされてきた人もいるでしょう。

 

そこで一番問題になるのは、周りの大人がどれだけ至らなかったかではありません。

子ども自身が身を守るために、誤った世界観や自己認識を身につけてしまうことです。

 

何か問題が起きたとき、大人であればおそらく上手く対処できていたであろうことも、まだ自力で生きていけない子どもにとってはそれらを上手く対処することは困難です。

そこで子どもなりにできる精一杯の方法が、他者やこの世界やたくさんの問題、何より自分自身への愛から身を引くことなのです。

それは、幼少期において周りから子どもが受ける影響がネガティブであればあるほど、顕著になります。

 

また、その逃避の方法はそれぞれ違いますが、共通することは、それが消えない潜在意識となり私たちの思考の基盤となっていくこと。

現在の問題を対処しようとするときに、その凝り固まった潜在意識がブロックとなり、前へ進むことを困難にするということです。

 

その潜在意識は、現在の私たちがいくらがんばっても修正することはとても困難です。

ですが、それが主に培われた過去の痛みを持つインナーチャイルドを癒すことで、現在の潜在意識までをも修正することが可能になるのです。

 

インナーチャイルドの癒しの本当の意味とは、その誤った潜在意識を修正し私たちを正しい愛へと導くことです。

曇りのない目を取り戻すことです。

 

私たちは、多くの人が今の「この私」は私自身が培ってきた存在だと考えます。

ですが、私たちはいわば過去の経験の塊、潜在意識の塊です。

そして、その潜在意識の大部分は自らでは生きる力すらなかった周りの環境に与えられてきたものです。

 

今の「この私」の大部分は「与えられた私」なのです。

私たちがインナーチャイルドを癒すにつれ、その「与えられた私」は少しずつ小さくなっていきます。

そこから私たちは、本当の「私」としての人生を生きていくことができるのです。

 

和解: インナーチャイルドを癒す

和解: インナーチャイルドを癒す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奇跡は内に

私たちはいつも自分の外側に生きてきました。外側に生を求めることで、内に完全なものが与えられていることにずっと気づくことができずに。

 

外側に生を求めることは、等身大の「わたし」以上のものになることです。

「わたし」でない何かになることです。

 

この世に生を受けたときから、それを積み重ね積み重ね、そうすることが生きる正しさだと私たちは誰もがそう思い込んでいきます。

 

人生に打撃を、大きな傷を受けたとき、多くの人は更に「わたし」以上の「わたし」になることを求めます。

そして打ちのめされ打ちのめされ、ようやく気づきます。

そこに正しさなどなかったことに。

 

本当は最初から全てが備わっていたのです。

だけど、幼いころからずっと繰り返し染み込ませてきた怖れという強硬な潜在意識は、それを認めることをまるで敗北のように私たちに捉えさせるのです。

だけど、それは本当に敗北なのでしょうか。

 

外側への生を手放すとき、私たちは生きる意味が一体何なのか分からなくなるような錯覚を受けます。

だけど、私たちの内は知っています。

それぞれの生の本当の意味を。

その声を本当に聞くことができるのは、外側への生を手放したときです。

それを手放したとき、その声は沸々と沸き上がる留めどない情熱のように心を包み、私たちは既に答えがそこにあったことを知るのです。

 

また私たちが普段視界で捉えているものは、ほんの小さな一部に過ぎず、ありのままの美しさでもありません。

 

長い間不安障害を抱えてきた私は、自宅近くにある大きな橋が苦手で、そこを車で渡ることをずっと恐れていました。

親友とランチをするためのショッピングモールに行くにはその橋を渡らなくてはならなくて、私はいつも予定の何日も前から怯えながら、時には耐えきれずに途中で薬を飲んで渡っていたのです。

 

そこまで不安に苛まれながらも、私は不安になる自分をずっと否定していました。

不安になってはいけない、恐れてはいけないと。

不安のない「私でない私」を求めていたのです。

 

だけど、もう限界でした。

ある時、橋の途中で私は諦めました。「ならなくてはならない自分」であることを。

神に降伏したのです。もうそうするしかありませんでした。

私は私であることを、そしてこの肉体の命も含めてあなたに全て委ねますと。

 

それは「そうあらねばならない私」への敗北でもありました。

ですが、その時私の目に飛び込んできたのは、敗北ではなく奇跡でした。

 

そこにあったのは、神が与えてくれたままの美しくそして完全な世界でした。

清み渡る青い空や川の水しぶき、壮大な大地、キラキラと水面を照らす太陽の光、生命の息づき。全てが完全な形でそこにあり、私を包み込んでいました。

 

それは、本当はいつでもそこにあったはずなのです。

だけど怖れの中に生きてきた私には全く見えていませんでした。

そして不安障害を抱える前、怖れていないと錯覚して生きてきた過去においても、私は一度もあれほどの美しさを感じたことはありませんでした。

 

私たちは私たちの内面を通してしか、物事を見ることはできません。

そして、私たちが知る内面の多くは「外側への生」を正しいと見なしてきた潜在意識に潜む怖れです。

 

橋を行く多くの人は、怖れています。前の車のスピードや、仕事のトラブルや、家庭がうまくいかないこと。

誰かに傷つけられ、傷つけること。

そして何より自分というたったひとりの分離された存在に。

その怖れのフィルターをかけた景色を橋の上から見ています。

 

外側への生を手放すとき、私たちは本当の景色に気づきます。

奇跡に。本当に魂が求める喜びに気づきます。

それに気づいたとき、私たちはもうずっと内に全てが与えられていたことを知り、それを与えてくれた偉大なる神への感謝と共にこの美しい世界に溶けていくのです。