道の途中で

生き辛さ、依存性や不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

愛を学ぶ場所

よく子どもは親を選んで産まれてくると言われる。

とてもそんなことは信じられないと言う人。

自分が選んでしまったのだからしょうがない。でもこんなはずではなかったと言う人。

良い部分だけを見ようとして、満たされない自分に気づかない振りをし続ける人。

 

だけど愛の欠如は、おそらくどんなに優れた親であっても必ず起こる。

この世界で愛と愛の欠如を教えてくれるのが親であり、何よりその欠如こそが私たちを愛という道に向かわせる原動力になる。

 

人生の中で、愛に似たものをたくさん求め、手にしては失望して投げ捨てる。

繰り返し繰り返し、数えきれないくらい。

それでもそれを求め続けることができたのは、きっとその欠如があったからだ。

 

もし幼い頃、充分な愛に満たされていたらどうだっただろう。

こんなにも愛を求め、探し続けただろうか。

これほどまでに誰かに与えたいと思っただろうか。

誰もの心の内にそれを見つけたいと、どうか見つけて欲しいとこんなにも願えただろうか。

 

遠く遠く、とても手が届かないところにあると思っていた愛が、どこよりも近くにあったと知るとき、私たちは産まれてきた場所も通り過ぎた過去も自分の中に統合することができる。

行き着くところ、人は絶対的な愛を知るために試行錯誤して生きているのかもしれない。

 

私はおそらくその愛を学ぶために、この人生のこの場所を自ら選んだのだと思う。

そしてそれは間違いではなかったと今では思っている。

本当の回復とは

毒親という言葉は、「毒になる親」の著者スーザンフォワードが作った言葉ですが、この言葉が世に出たことでどれほどの人が救われたことだろうかと思います。

依存症や共依存、生き辛さなどの根本的な原因が自分ではなく、生育環境にあると知ることは、アダルトチルドレンにとって回復のきっかけになることは間違いありません。

 

回復のプロセスのまず初めの段階としては、ありのままの悲しみや怒りを感じきるという作業は必ず必要となります。

幼少期から封印してきた感情を感じきることは、ありのままの自分を認めるということが当然の権利であることだと知ること、また自分に罪はなかったのだと知ることです。

ですがそこを乗り越えたとき、毒親ということばから連想される「傷つけるもの」と「傷つけられるもの」という認識が逆に回復の妨げになることも多々あるのではないかと私は感じています。

 

ネットで毒親と検索をかけると、たくさんの記事が上がってきます。

そのほとんどが「傷つけたもの」(毒親)に対する「傷つけられたもの」(自分)の怒りや憎しみで溢れています。

自分の正当性を保つために、その怒りや憎しみを保持していくべきだという記事も多々あります。

ですが、それが本当の回復であり、人間の幸せに繋がるものでしょうか。

 

「傷つけるもの」と「傷つけられるもの」が存在するという概念は、私たちの意識に、この世界には敵が存在するのだと認識させ続けます。

その意識により、私たちは傷つけられることを、そして自分が誰かを傷つけてしまうことをずっと恐れて生きていくのです。

他者との間に壁を作り、消えない不安を抱え、人生に防御を常に必要とするのです。

 

それが本当の幸せでしょうか。

私はそうではないと思います。

本当の回復とは、傷ついた自分が自ら傷ついたのだと知ること。それは決して弱いからではなく、優しさからだったと知ること。

そして、私たちは誰かの魂を決して傷つけたりすることなどできないということを知ること。

何より、この傷ついたボロボロの姿はほんとうの自分ではないと知ること。

どんなにみずぼらしくて汚くて、もう動けないほど傷だらけに見えても、決して傷つかない魂を自分の中に見つけることなのだと思います。

 

甘いですか?

だけど、私は経験上これ以上の救いはないと思っています。

小さなころ、たくさんの抱えきれない傷を負ったものが自分の力で立ち上がり歩いていくために必要なことは、肉体的に精神的に誰かより強くなることではありません。

自分の人生に防御が必要でないと知ること、それこそが何よりの力となり回復になると私は思っています。

インナーチャイルドワークでできることできないこと

インナーチャイルドのワークは、自己認識や世界観を変えていくのにとても大きな効果をもたらします。

私もインナーチャイルドと向き合うようになったことで、自分の認識というものがいかに偏っていたのかを知り、その結果自分への信頼や自己愛を深めることができました。

 

だけど、私はそこで終わることができず、いつしかインナーチャイルドの完全な癒しを求め続けてしまっていたように思います。

苦しみや不快感を感じる度に、根本の原因に立ち返り、癒し、修正する作業を延々と繰り返し続けていたのです。

そうしてある時気がつきました。

とてもきりがないことに。

 

それでも、そうしないわけにはいきませんでした。私は心のどこかで潜在意識(インナーチャイルド)が完全に癒されることが自分の幸せなのだと錯覚していたのかもしれません。

 

それを救ってくれたのはある人の言葉でした。

「潜在意識がチャイルドで、顕在意識がお母さんなんだよ。」

その短い言葉に、私の心がどれほど救われたかとても言い尽くせません。

 

潜在意識とは何でしょうか。

以前のブログでは幼少期に作った間違いだらけの辞書とも書きましたが、それは私たちの肉体そのものと言っても良いかもしれません。

だけど、私たちの本質は肉体ではなくスピリット=魂です。

潜在意識を生きるとは、肉体を生きることに他なりません。

今ここを生きるのではなく過去を生きることです。

 

また、潜在意識(インナーチャイルド)はあくまで12歳までという幼少期に培われた古い意識です。それを完全な状態に修復していくのは不可能であると共に、あまり意味のないことなのかもしれません。

 

ならば、私たちがより良く生きていくためにできることは、生きるということの主体をチャイルド(潜在意識)からお母さん(顕在意識)に明け渡すことではないでしょうか。

もちろん、それには自身の自己認識や世界観が癒されていることが必要不可欠ではあります。

インナーチャイルドのワークは、その癒しの根本となる自己愛を得ること、また偏った認識の癖が過去にあることを知ることだけで、本来は充分なのかもしれません。

 

私はおそらくそこを間違えていました。

まるで過保護な母親のようにインナーチャイルドの痛みに寄り添いながらも、未熟なままを認めず、立ち上がるよう促し続けていたのです。

 

更に潜在意識(インナーチャイルド)を癒し続ける作業というのは、あるがままの感情を時に否定する行為にもなりかねます。

感じること(インナーチャイルド)はそのままで良いのです。

それがどんなに未熟でネガティブなものであってもしょうがないのです。

だって、それは記憶の再生に過ぎないから。

お母さん(顕在意識)はそれを受け止めるだけ。チャイルドを深く愛すれど、人生を主導させるべきではないのです。

 

そして、お母さん(顕在意識)を偽りなく良いものに近づけていくために、先人たちはたくさんの知恵をこの世界に残してくれています。

それらと共鳴することは自らの内にもその一部があり、完全なるものがあることを私たちに教えてくれます。

 

私たちの肉体は潜在意識の塊ですが、本来の私たちは潜在意識という過去の記憶ではありません。

それを知ることが、インナーチャイルドにとって何よりの癒しとなるのかもしれません。

感情を知ること

今になって本当につくづく感じることは、過去の私がどれほど自分の感情を無いものにしてきたかということです。

ものごころがついた頃には、私は目の前にいる人の気持ちを計らってからしか自分の感情を表せなくなっていました。

泣きたいときも笑いたいときも、相手も同じ感情なのかを確認し、そうでない場合は気持ちを封印し、そのうちに、自分の感情が自分でも分からなくなっていったのだと思います。

 

特に、苦しみや痛み、悲しみといったネガティブと言われるものには(もちろん感情にポジティブやネガティブなどはないと今は思いますが)その傾向は特に顕著でした。

実際、足を骨折しているのに痛みを感じず普通に歩いていたりしたこともあります。

痛みを感じにくいおかげなのか出産も本当にスムーズでした(笑)

 

私ほどでないにしても、多くの人は感情に善悪をつけ、封印したり心の中で常にジャッジメントをしています。

それは潜在意識の働きです。

 

小さなころ、暗闇が恐いときに言われた言葉

「そんなの恐くないから」

痛くて泣きたいときに言われた言葉

「そんなことで泣くなんて。男の子でしょ。」

苦しくて逃げ出したいときに言われた言葉

「そんなこともできないの。」

 

例えその出来事を忘れてしまっても、その言葉を今は思い出せなくても、潜在意識は無意識に同じように語りかけてきます。

 

ですが、過去は変えられません。

原因を探ることは、問題を解決するための糸口を探ることであり、それ以上のものにする必要はありません。

 

潜在意識とは何でしょうか。

私は辞書のようなものだと思います。

何かものごとが起きたときに頭の中で勝手に引かれる辞書。

それは自分では生きていけない幼少期に小さな頭で考えて小さな手でつくったもうヨレヨレの辞書。

ひらがなばかりで読みにくく間違いだらけ。

 

だったら私たちに出来ることはその辞書にありがとう、もう大丈夫だよと感謝して新しい辞書を選ぶことなのではないでしょうか。

その辞書は消えることはありません。

私たちの過去が消えないように。 

でも、間違いだらけの辞書を持ち歩く必要はもう私たちには無いのです。

 

感情は私ではありません。

だけど感情は私に生の喜びや苦しみをダイレクトに伝えてくれます。

それによって私はこころが求める道を選ぶことができます。

 

感情を封印しなくなった今、それはいつも雪崩のように心を動かしそのパワーに私は圧倒されます。

流されることなく逃げることなく向き合っていけたら、といつも思っています。

 

虐待の連鎖を絶ち切るために

小学4年生の児童虐待死のニュースを連日耳にし、とてもやるせない気持ちになります。

ですが、同時にここまでの激しい虐待の中で辛うじて生き延びたとして、彼女のこころが本当に救われる日は果たして来たのだろうかと思うのです。

 

例え成長し虐待から逃れられたとしても、幼少期から繰り返し受けた心の傷を癒やすことは容易ではありません。

多くの人が、心の病や自殺願望を抱えながらようやく命を繋いでいたりします。

虐待被害者にとって、親からの直接的な虐待は終わったとしても、自らへの精神的な虐待はずっと続いていくからです。

 

親から充分な愛情を受けてきた人には、それはとても不思議な光景に見えるかもしれません。

何故そこまで自分を苦しめるのか、自分を愛してあげないのか。

もう終わったのだから良いじゃないか。

 

被害者のその自虐的思考や行為は、幼少期から刷り込まれてきた潜在意識の反応かもしれません。

そして私は被害者が無意識に行う自虐的行為こそ、親への最大の愛情表現ではないかとも思うのです。

 

何かの記事で、未熟な親の元に育った人は、どれでも良いから自分の好きな大きな木をひとつ選び、その木を親と思うことで心の安定をはかれると書かれてあるのを目にしたことがあります。

それほど、人は幼少期において親に認められ支えてもらう経験なしに、人生を生きることは難しい生き物なのかもしれません。

 

そして子どもは自分の苦しみ以上に親の苦しみを感じています。

自虐的行為や思考は、親を救いたいという気持ちの表れでもあると私は思います。例え本人の顕在意識がそう感じていなくても。

 

また、虐待をしてしまう親もおそらく虐待の連鎖の被害者に過ぎません。

虐待が起こってから、今回のような事件となる水際でもしそれを食い止めることができたとしても、悲しい連鎖はなかなか止められないのが現実です。

 

だから、虐待や連鎖を無くしていくために私たちが今できる最大限の努力は、それぞれが何より自らを癒やしていくことなのではないかと思うのです。

そして目の前で過去の傷に苦しんでいる誰かに手を差し伸べること、それだけなのかもしれません。

インナーチャイルドが苦しむ要因

インナーチャイルドについて最近少しずつ分かってきたことがあります。

 

私は今までインナーチャイルドが癒されていない要因は、親などの外部の環境の影響が大部分を占めると思ってきました。

親から子への言動に問題が大きければ大きいほど、子どもがトラウマを抱える比率が上がり、インナーチャイルドが傷つくのではないかと考えていました。

 

もちろん、それらの影響はとても重要です。

ですが、それよりも持って生まれた本人の気質や性格によるもののほうが、さらに大きく影響するのではないかと今は感じています。

 

傷の深いインナーチャイルドを持つ多くの人の特徴は、人の気持ちが分かりすぎる、感受性の強いいわゆるエンパスタイプです。

人の痛みや苦しみを自分のもののように感じ、他者との感情の境界線を引きにくいという特徴を持っています。

 

このエンパスという特性は、後天的なものであるという意見もあります。

相手の気持ちを思いやらなければならなかった環境、自己承認を得るために親の顔色を伺わなければならなかったような環境においてその特性が育まれるという意見です。

また日本のように、周りとの協調性を重んじる文化圏においては、エンパスの割合は他国より多くなると言われます。

 

ですがどんなに酷い外部環境、例えば虐待などの環境においてもさほどトラウマを持たず生きていける人がいるように、エンパスになるための環境をいくら与えられても全くそうならない人もいるのです。

逆に何ら問題のない環境に育ってきても、その共感性の強さから深刻なインナーチャイルドを抱えている人もいます。

 

そう考えると、やはりエンパスは持って生まれた特性ではないかと思うのです。

周りの環境は、その特性を増長していく要因に過ぎないと私は考えています。

 

では、エンパスであることがインナーチャイルドにどう影響していくのでしょうか。

 

生まれてから幼少期にかけての子どもにとって、親という存在は計り知れないほど大きなものです。

自分の命を繋ぎ、世界とは何かを教え、自分という存在の価値を決定づける大切な存在です。

 

その親が悩んだり苦しんでいた場合、共感性があまり高くない、エンパスの特性を持たない子どもは、その苦しみを親自身のものだと判断できます。

自分の感情と相手の感情の間に、境界線を引くことができるのです。

ですが、その境界線が分からないエンパスの子どもは親の苦しみを自分の苦しみと同一化します。

 

もちろんそれは苦しみだけではなく全ての感情においてです。

例えば親が喜んでいてもエンパスの子どもは自分の喜びのようにそれを感じます。

 

ですからエンパスの特性を持つ子どもの内面はいつも大忙しです。

いくら自分に幸せなことがあったとしても、周りのエネルギーがネガティブな場合、それらを読み自分のものと同一化するため、自分の幸せすら分からなくなるのです。

 

そこでようやく影響してくるのが、周りの環境です。

周りが、主に親が問題を抱えていた場合、エンパスの子どもへの影響はそうでない子どもに比べ、よりネガティブになります。

 

そのような条件下において、子どもが優先すべきは、いつしか自分よりも常に親の感情となっていきます。

親の感情を読み、自分が認められているか否かが、自分の存在の否定や肯定に繋がる全ての要素となります。

 

これは自己保身のためだけに起こる現象ではありません。

以前のブログでも書いたように、子どもから親に向ける愛情は、親が子どもに向ける愛情よりもずっとずっと深いものです。

子どもにとって、お母さんが幸せであることは、子どもが自覚しているしていないに関わらず、自分のそれよりも大切なものなのです。

 

そして親が幸せでないとき、幸せにできない、満足させられない自分の価値を、子どもは自ら下げていくのです。

(017)母という病 (ポプラ新書)

(017)母という病 (ポプラ新書)

 

そしていつしかそれが固定された潜在意識となり、不安や怖れ、自己不信感へと繋がっていく。

それが、インナーチャイルドが苦しむ根本原因ではないかと思います。

 

ですがその自己価値の認識は、もちろん正しいものではありません。

この世界の知識や生命力がまだ乏しい小さな子どもが、間違って身につけた怖れからの防御です。

そして、怖れという感情の裏にあるものは常に「愛」です。

私たちはいつも愛が欲しかった、そして愛を与えたかった、ただそれだけだったのではないでしょうか。

 

またエンパスであること、共感性が高いことは決して否定される能力ではありません。

それは使い方によっては素晴らしい才能です。

喜びも悲しみも受けとる力が高ければ高いほど、それは新たなものを生み出す力になります。

芸術家や音楽家なども、高い共感性がなければ心に響くような作品を生み出すことはきっとできないでしょう。

 

インナーチャイルドが傷ついて動けなくなっている人は、その優れた共感性の大部分を外部にいる他者に合わせています。

だから、自らの感情をそのまま感じることができなかったり、またそれに気づくことすら上手くできなかったり、そもそも自分の感情を受けとめる行為そのものに罪悪感や不信感を持っていたりします。

 

私たちは、ただその特性の使い方を間違えてきただけなのです。

本来、その鋭い共感力を使わなくてはならない相手は親でもなく、他者でもなく、何よりも自分、そして内に存在する神だけです。

 

そして、全ての感情の責任は自らにしかないことを私たちは知るべきです。

それは、相手を放棄することではなく自分を保護する防御でもなく、相手への自分への本当の愛情であり優しさです。

自らの感情の原因を相手に起因させたり、相手の感情の責任を自らのものと受け止めコントロールしようとすることは、それぞれの人生の学びを妨害しようとしていることと同様です。

 

悲しみを深く悲しみ、痛みを強く受け止める力があるからこそ、それらを昇華し光に変える力をもまたエンパスは持っています。

それを行うべきは、自らの感情だけでなくてはなりません。

それは、決して何かを成し遂げたり形にする必要はなく、ただそう在ることが本当の意味で自分を救い、相手を救うことができるのだと、私はそう考えています。

過去と融合すること

私たちの肉体は、過去の記憶の塊、潜在意識の塊です。

私たちが肉体の眼で、見ているものは「今」ではなく、もう「今ここ」に実在しないもの。

幻想のもの。

 

ならばこの「怖れ」を、もう「無いもの」として見ないようにすれば良いのだろうか。

この「不安」を、「無いもの」を見ようとするエゴの働きなのだと笑い飛ばせば良いのだろうか。

 

「過去の私」は、いつも今のこの肉体を使って、幻想の怖れに、不安に目を向けてほしいと訴える。

何度も何度も。

そうしないと安心できなかったから。

違う。そうしたっていつも安心などできなかった。

でもそうするしかなかった。

 

私にはそれを笑い飛ばすことができない。

彼女の苦しみが今もまだ伝わるから。

 

だけど「過去の私」は、今の私に一緒に苦しんで欲しいのだろうか。

怖れて欲しいのだろうか。

それはきっと違う。

彼女はただ願っているだけ。

「今の私」がもう苦しまないことを。

教えてくれているだけ。

「今の私」が傷つかないための小さな間違った方法を。

 

ならば「今の私」が彼女にしてあげられることは何だろう。

それは、きっと「今の私」が傷など負わない存在であり続けることだ。

彼女が傷だったと思っているものを、それは傷なんかじゃなくかけがえのない経験だったのだ、と教えてあげることだ。

そして、それを「今の私」が本当のかけがえのない経験へと昇華していくことだ。

 

彼女は傷を受けたと私に伝える。

だけど、私たちは損なわれることはないし、今まで一度だって損なわれたこともない。

「今の私」が揺るぎなくそうあれば、「過去の私」は「今の私」に溶けていき、ひとつになれる。

 

肉体の目を閉じて魂の存在になるとき、私たちは内に完全なる光を見つけることができる。

それはいつもそこにあり、これからもあり続ける。

私はその光でありたい。

「過去の私」のために。

そして「今の私」のために。