道の途中で

生き辛さ、依存性や不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

スピリチュアルについて思うこと

スピリチュアルって何だろう。

私が考えているそれと、一般的に認識されているものとの違いにいつも戸惑ってしまう。

特殊な能力、例えば霊が視えたりオーラを見たり、前世を見たり、未来を予言したり、それらをスピリチュアルと呼ぶなら、そんなものに生きる救いを求めたところで一体どんな意味があるのだろうかと思う。

 

それは、人がつくった優劣や枠組み、選別しふるい落とす、或いは何かを特別視し崇めるシステム、そんな生まれたときから慣れ親しんだ価値観にしがみつくことと何ら変わりがない。

それがそうならスピリチュアルは、一時的な避難所、または自分を大きく見せるための肩書きやブランドバッグの代わりにしかならない。

 

私たちは今ここにはない何かにならなくてはならないのだろうか。

優れた霊能者の特別な能力で何かを足したり引いたりされなくてはならない存在なのだろうか。

もしそうなら、永遠に迷路から出られることはない。

ゴールに辿り着いた途端、また違うゴールを目指さなくてはならなくなる。

 

生きていくことと引き換えに、私はいちばん大切なことをいつも後回しにしてきた。

初めから与えられているものこそが何よりも自分を救ってくれるものだったのに、それを押し込め見ないふりをして無いものばかりを求めてきた。

そうしたかったのではなく、そうすることしか知らなかったからだ。

 

そして多分たくさんの人がそうやって苦しんでいるのだと思う。

この世界の限りなくあるパズルのピースにどうにかして自分のかたちを合わせなくては、他の誰かよりも早くそれを完成させなくては、置き去りにされないようにしなくてはともがいている。

 

スピリチュアルは、私にとってそんな生まれたときからの洗脳を解いてくれるツールだった。今まで知っていたどんなやり方よりも信頼できる方法で。

そのひとつは視点を変えること。肉体という有限で不安定な物質から、魂という無限で揺るぎないものの視点に。

そうすれば、答えは全て自分の中にしかないことが自ずと見えてくる。

 

パズルがもしあるとするなら、それはその人の中にあり、そのピースも全て内側に揃っている。

やるべきことは、そのひとつひとつのピースと描いてきたパズルの絵をただ愛することだけだ。

だけど、その愛し方は生まれてから身につけてきた未熟な方法でなく完全な方法でなくてはならない。

だから、神さまというお手本が必要になる。

無条件の愛し方を、私たちは長く忘れてしまっているから。

何度も学び、繰り返すことで、それを少しずつ思い出していく。

 

私にとってのスピリチュアルとは、その無条件の愛の学びなのだと思う。

人の目に映る全てのものは、必ず心というフィルターを通す。

心の曇りや痛みや苦しみ、そして喜びや愛は、目に映るもの全てにそのかたちを鮮明に浮かび上がらせる。

目の前の他者も、その空も川も海も、車も本も部屋も鉛筆も全てあなただ。

だから、私たちはただ自分を癒やせば良い。

それは世界そのものも変えていくちからになるのだから。

自分との関わりが変えるもの

子どもの頃、芥川龍之介の描く死後の世界が大好きでした。

どうしてあんなにも惹かれていたのかずっと分からなかったけれど、最近になってそれが少し分かってきた気がします。

 

きっと私は小さな頃から、自分が生きるこの世界の矛盾に苦しみ、ここから救ってくれる正しい何かを切望していたのかもしれません。

杜子春」や「蜘蛛の糸」の中で描かれるいわゆるあの世は、人の醜さも美しさも全てがさらけ出され、報われるべきものがようやく報われるような確かな救いの場所のように小さな私には感じられました。

 

子どもながらに私は、そんなあの世に魅了され、それが成長して後も心の支えとなり続けました。

私もいつかこの肉体を出るときには、必ずそんな世界に行けるのだ、そう信じることで生きるということがやっとできていたのかもしれません。

 

だけど、本当は私の内に確かなものがあるからこそ、そんな世界に共鳴し魅了されていたのだということにはずっと気づきませんでした。

小さな頃に思い焦がれたあの世のような確かさをこの世界の中に探し続けては幻滅し、だけどそうしていることを誰にも気づかれたくないと思っていました。

周りの人は、そんなことを考えることもなく、いつもあたり前に生きているように私の目には見えていたからです。

そして、皆のように生きられない自分こそ何もかもが足りないのだと、それを埋め合わせてくれる何かを探し続けました。

 

ですが、そんなときも私の内はきっと繰り返し私に伝えてくれていたのです。

あなたには足りないものなど何ひとつないのだと。人は誰もがそんな完全な存在としてつくられたのだと。

私はそんな内なる声にずっと耳を塞いでいたのだと思います。

 

私は特に信者ではないですが、キリスト教的思想は一般的に誤解されている部分がたくさんあると感じています。

イエス・キリストは神ではなく、私たちと同じ神の子です。

神は人をキリストと同じように完全な存在としてつくり、その全てを常に赦されています。

ただ人(私)だけが、いつも人(私=キリスト)を羨望し、拝み奉り、いつしか恐れ、罪と罰を与え、そして貶めるのです。

神は全て赦しておられるのに、人は人に、自分に何故それを繰り返すのか。

 

それは、自己への信頼の恐れ、内なる神への信頼の恐れなのかもしれません。

そんな不確かに見えるものよりも、人は何か目に見えるものに救われたいと願います。

例えば、お金や地位、称賛、美しさ、強さや正しさ、愛する誰かに。

人が価値を定めたそれらのものに、もし寸分の狂いもない確かさを求められたならどれほど救われるでしょうか。

 

ですが、目に映るものに完全な正しさなどありません。

それはやはり内に見つけるしかないのです。

そして、内への信頼は世界をもまた確かなものに変えていきます。

 

人と人との関わりは、自分との関わりの投影で、その投影は自らの感情や認識を通して、目に見えるこの世界を形作っています。

世界を通して、人は自分が考える自分の姿を何度も何度も目の前にさらけ出されます。

自らの心の優しさや美しさを、そして醜さ、憎しみ、恐れを。

そんな全てを神から愛されるように無条件に愛することを、本来私たちは誰もが望んでいるのに、それを疑い続けます。

 

ですがその欲求に気づき、その愛を信頼していくこと以上の救いは無いと私は思います。

その信頼だけが、世界への投影を憎しみや恐れから愛というかたちへと変えてくれます。

そして、あの世でもなく小説の中でもない、この世界に本当に確かなものを紡いでくれる糸となるのです。

 

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

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無条件の愛―キリスト意識を鏡として

無条件の愛―キリスト意識を鏡として

 

 

 

 

 

 

玉虫色の石

その子は、いつも玉虫色に光る石を大切に持っていた。

使い古された筆箱をぱかりと開けると、石はその隅でまあるく光って彼女に微笑んだ。

 

誰かにいじめられたり、傷ついたり、ひとりぼっちで寂しいときも、そのきらきらした輝きを見ていたら、不思議と何だか大丈夫だって思えた。

 

お母さんは

「そんな汚いもの捨ててきなさい。」

といつも言う。

クラスの子は

「うぇー。こいつ変なの持ってるよ。」

「そんなのどこで拾ってきたんだよ。」

ってからかう。

 

でも、何を言われたって関係ないと思ってた。

だって、こんなにきれいなんだもん。

 

ある日友達が

「そんな石よりこっちのほうがいいよ。」

ってイヤリングを見せてくれた。

正直そんなにきれいって思わなかったけど、みんなが

「わーすごい。かわいいね!」

「そうだよ。女の子が石なんか持ってるのおかしいよー」

なんて騒ぐから、そんな気もしてきた。

あの石が何だか少しつまらないもののように思えてきた。

 

帰って筆箱を開けると、どうしてかあんなにきれいだった玉虫色の石が、ただの茶色いどこにでもある石にしか見えなくなっていた。

そうか、本当ははじめからこんな色だったのかもしれないな、その子はそう思ってそれを筆箱から取り出し、机の奥に乱暴にしまいこんだ。

 

だけど、それから何故か毎日がつまらなくなった。

どうしてか分からない。

ただ、自分の一部がすっぽり抜け落ちたみたいに感じていた。

 

成長して大人になった後も、それは変わらなかった。

抜け落ちた足りない部分を補うものを、いつも探すように生きた。

石よりもうんと高価なものもたくさん手に入れたけれど、やはり抜け落ちた一部は戻らない。

 

あの石を机の奥から引っ張り出して手にとってみた。

だけど、何度見てもやっぱりそれはただの茶色い石だった。

 

ある日、彼女は夢を見た。

さいころの自分の夢だ。

夢の中で、小さな自分の手に乗せられたあの石はあの頃のようにとても美しく輝いていた。

だけど、その石を見つめる小さな自分の目は、その石よりもずっとずっと輝いていた。

そのキラキラと眩しいばかりの瞳の輝きが石に反射され、あの石はあの玉虫色の輝きを放っていたのだ。

 

泣きながら目覚めた彼女は、あの日から抜け落ちたままの何かにようやく気づいた。

美しいものを美しいと信じるこころを。

そんな自分を信じ続ける勇気を。

その時、バラバラになっていた自分の一部がようやく戻ってきたように思えた。

 

あの石は、今でも彼女の机の引き出しの奥にある。

彼女は、時々それを取り出して眺める。

石は、その手の中であの頃のように玉虫色の光を放ちながら彼女に微笑む。

彼女は石に語りかける。

「うん。やっぱり君はどんなものよりも美しい。」

感情の抑圧と受容

アダルトチルドレンにはさまざまな定義がありますが、未熟さを許容されず、強制的に手放さなければならない環境で子ども時代を過ごした人だと私は思っています。

 

子どものときは、誰しもが弱さや未熟さを抱えています。

本来、人はこの未熟さを無理やりに手放すことで成熟した大人になるわけではなく、未熟さを認めて受け入れていくことで少しずつ成長していきます。

ですがアダルトチルドレンの場合、それらのプロセスを経ず大人と同等のようにならなければならなかったため、感情や思考にかなりの負担が生じたままとなります。

 

未熟であることの生命の危機感と引き換えに手にいれるもの

いかに未熟でありながら、その未熟さが全く認められないという焦燥感は、子どもにとっては命の危機にも値します。

その危機から自らを救うため、子どもは本来の自分を否定し、かりそめの自分という殻を形成します。

そして、このかりそめの殻を被ることで、生き延びるための一時的な安心を築きます。

 

この時、否定され置き忘れられてきた最たるものは、自らの感情です。

かりそめの殻は、養育者や周りからの自分への評価によって作り上げられるものですが、感情はその形成を妨げるもの、形成において何より邪魔になるものだからです。

 

アダルトチルドレンは感情でなく思考でものごとをはかる

ですから、成長した後もアダルトチルドレンは自らの感情を封印または否定し続け、思考だけでものごとをはかろうとし続けます。

例えば「幸せ」というこころのあり方も、思考で考えられる一般的な価値観、「結婚すること」「お金を持つこと」「地位を手に入れること」「家族がいること」がそうであるはずだと、なのにそれを手にしているにも関わらず、何故自分は幸せだと考えられないのかと自分を責めます。

 

では、感情とは何でしょうか。

感情(かんじょう)とは、ヒトなどの動物がものごとや対象に対して抱く気持ちのこと。喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがある(感情の一覧)。

Wikipedia より

感情とはすなわち、私がものごとに対してどんなふうに気持ちを抱いているかを私に教えてくれるものです。

例えば、先ほどの「幸せ」についても何か現象としてそこにあるものではなく、気持ちそのものの状態を指します。

目の前の事柄云々ではなく、幸せだと感じるこころの状態が、その人にとっての幸せなのです。

 

感情をコントロールする唯一の方法は、抑圧することではなく、受け入れること

ですが、感情は本来抑圧できるものではないし、抑圧することで消えて無くなるものでもないのです。

受け入れること、感じきることだけがそれを消化させてくれます。

 

その証拠に、封印されてきたはずの感情は未消化のまま、生きづらさなどの問題として何度も目の前に立ち塞がり続けます。

その、一見ここにある問題のように見えるものは、実は過去の悲しみや苦しみ、怒り、憎しみが目の前のものごとに反映されただけに過ぎません。

 

大切なことは、感情を思考せずに受け入れることで、それができれば必ずその感情は無くなっていきます。

もし無くならないのなら、受け入れることをやはり思考で拒否しているからです。

 

感情を受け入れることは自分を受け入れること

もちろん、感情を抑圧し続けてきた人にとって、感情をありのまま受け入れることは、始めのうちはとても難しく感じますし、恐ろしくもあるかもしれません。

先にも述べたように、それは自らの生命をも脅かすものだと潜在意識に刷り込まれているからです。

 

ですが、今実際にあなたを脅かしているのは感情ではなく、そのかりそめの殻のほうです。

感情を受け入れるという作業は、殻のではなく本来の自分を受け入れる、また自分が本当に求めているものに気づくための大切なプロセスとなります。

 

そして、そのプロセスを経ていくことで、人は自分の感情がこれまでどれだけ自分に対し、かりそめなどでなくありのままに生きたいと伝えてくれていたのかを知ることができます。

その時、何よりも邪魔に感じていた感情が、誰よりも自分に寄り添ってくれていたかをもまた知るのです。

 

ですが何故、人はそのかりそめの殻を自分として生きられないのでしょうか。

小さなころから感情を抑圧し、本来の自分を手放し、いいえいっそ抹殺し、自分でないもので生きることをこんなにも求めてきたのに。

 

私は、そこに内なる神のちからを感じてならないのです。

人がどれほど至らなさばかりを探しても、あなたのありのままに優るものなど何もないと包み込む神が誰の中にも確実に存在するように思うのです。

そしてその内への信頼は、やがて目の前のどんなに些細なものをも「幸せ」という感情に作り変えてくれるのです。

全ては愛ということば

スピリチュアルでよく言われる「全ては愛」という言葉、一般的にはとても誤解のある言葉だと思うし、実は私もずっと苦手でした。

特に、こころの中が困難でいっぱいになっているときには、それはただ目の前のものごとから目を反らすだけの薄っぺらい言葉のように感じてしまいます。

 

「愛」とは何でしょうか。

異性への愛、家族への愛、友人への愛、他者から与えられる愛、物質への愛、自分の外側にあるそれらは常に変動します。

かたちや大きさを変え、また時には消滅します。

 

だけど、もし人が内側に神さまを見つけ、その神さまをきちんと理解するなら、その愛は不変であり、不滅であり、無条件であり、完全なものです。

そして人は、誰もが完全なる愛の存在を知っています。

例えそれに触れたことが肉体の記憶に無くても。

 

この世に生まれて、愛のない場所で育った人も、条件を満たさないと与えられないものが愛だと、或いは従うことが愛だと教えられてきた人も、相手から気まぐれに与えられるものが愛だと学んできた人も、誰もが知っています。

自らの知るそれらが完全なそれではないことを。

だから皆、唯一のほんとうを探し続けています。

 

だけど、そのほんとうは自らの内にあります。

人のつくり出す全ての感情は、その愛に基づき排出されています。

喜びだけでなく、苦しみも憎しみも悲しみも恐れも、それを守りたいが故につくられます。

 

だけど、人はそのことに気づいていません。

憎しみや怒りは単独で存在するものだと思い込んでいるし、だからそれを排除しようと躍起になります。

何より、その愛が誰からも傷つけられないものであることも知りません。

何故なら、外側に見える愛と呼ばれるものは、常に傷つき失われてきたからです。

 

内に愛があることを否定しているとき、それが簡単に失われてしまうものだと感じているとき、人は愛を求めること、守ることが生きることそのものになってしまいます。

それほど人は弱い生き物で、愛がないところには、生きる安心を築けないからです。

愛があって初めて、この世界を、自分を、他者を信頼することができ、その信頼という安心の中で、人はようやく自分を生きることができます。

 

愛は目に見えないから、物質世界に生きる私たちはよく間違えます。

目に見えるものが、地位が、名誉が、条件の整った自分が、誰かの愛情が、それらが得られないから目に見えないもの(神であり愛)に逃避するのだと。

 

本当は逆です。

内なる愛への信頼感の不在が、私たちを目に見える何かや誰かやかたちに縋らせているだけです。

 

内なる愛は、生きることの力の全てを与えてくれます。

ここに生きる許しを、生きる意味を、生きていく安心を。

人は誰もが、その愛に基づき生かされます。

それが、「全ては愛」ということばの意味なのだろうと私は解釈しています。

 

私は、自分が何よりもそれを求めていたことにずっと気づきませんでした。

違うものを手にしては、素晴らしいはずのものを手にしているのに、いつまで経っても満たされない自分に落胆し、また求め続けました。

ですが、そんなプロセスすらきっと必要だったのかもしれません。

 

それでも、その愛への信頼は結ばれたと思った瞬間、また手が届かないものに変わります。

だから、私は繰り返し求めます。

最初は、頼りなく弱々しく見えたその繋がりが、深くしっかりと結ばれるようになるまで。

いつか自分がそのものになれるまで。

ゲシュタルトの祈りに学ぶ人との関わり

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。


もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

ゲシュタルトの祈り wikipediaより)

 

人と人との境界線はとても難しく、多くの人が誰かに傷つけられることを、誰かを傷つけてしまうことを怖れながら生きています。

私もまた、この境界線を引くという作業がとても下手でした。

自分の言動が時に相手を傷つけてしまうと、また相手の言動が私を傷つけるのだと信じて疑わなかったし、だから常に相手の感情を探り、相手から求められる自分でありたいと、また相手にもそうあってほしいと求めてきました。

 

他者の言動にどれほど影響を受けるかは、全て自分が決めている

ですが実際のところ、人が他者の感情をコントロールすることはできません。

もちろん、他者の心無いことばで傷つくことはありますが、その時傷つくか傷つかないかを決めているのは、全て自分です。

例え、同じことばをかけられたとしても、傷つく人もいれば全く傷つかない人もいるからです。

 

傷つくのは弱いからではない

そうすると感受性の強い人は、些細なことで傷ついてしまう自分を責めたり、感情をシャットダウンして傷つかないよう防御をしようとしたりしますが、そもそも傷つくことが悪いことだという認識こそが間違いです。

 

傷つくのは弱いからではなく、守りたい大切なものがあるからです。

例えば、尊厳であったりプライドであったり、自分らしさであったり、かたちはさまざまですが、それらが求めているものは内にある愛です。

 

人が、その愛にどれほどの希望や宝を見い出せるのか、それは感受性の強さとも比例します。

それを守りたいが為の傷もまた、弱さではなく思いの強さ故のものです。

 

傷つく気持ちはかけがえのないもの

この世界では、弱肉強食こそ正しい価値観だと長く信じられてきました。

ですが、人というひとりひとり違う個性を持つものを、ひとつの価値観に収めようとする社会に限界が来ているように私は感じています。

 

それに弱肉強食が正しいとしても、どんなことばにも傷つかないこと、自分が暴言を口にする痛みを知らないことは、本当に強さでしょうか。

キリストは

「右の頬をぶたれたら左を差し出しなさい。」と言いました。

このことばの意味は諸説ありますが、相手への憎しみは人を救わない。弱きものでいられることが真の強さであること。

何故ならあなたが本当に大切にしているものは誰からも傷つけられはしないのだから、ということばのように私には思えます。

 

自分の感情に責任をもつ

自らの感情は自分だけのもので、その責任は相手にではなく全て自分にあります。

相手の言動は、その感情を自らが引き出すための引き金に過ぎません。

 

だからと言って、感情を排除する必要もないのだと思います。

感情に良い悪いなどなく、苦痛な感情の発生も大切な何かを守りたいという意味を持つからです。

そして、その感情が求めていることは、その大切な何かが決して失われないものだという理解だけです。

 

感情に責任を持つとは、自らの感情をコントロールすることではなく、お互いへのコントロールと責任を相手に求めないことだと私は思います。

 

依存のない関係こそお互いをひきだすもの

巷に溢れる情報の数々は、どうすれば相手の気持ちを変えられるのか、相手が求める自分であるには、というものばかりです。

ですが、それらは思いやりや愛情に見せかけたコントロールであり依存です。

 

ゲシュタルトの祈り」は、あるがままの人との関わりの美しさを教えてくれます。

私は、もうそうやってしか人と関係を築いていきたくないのです。

あるがままの自分でいられる、あるがままの相手の姿を愛せる、それが私にとっての最も幸せな人間関係だからです。

自分を捨てて真の自分と出会う

私たちの肉体は、どんなに歳をとっても、どれほどの経験を積み重ねても、幼少期から少年期に育まれた潜在意識からは離れられないのかもしれません。

その時期に、繰り返し感じた体や心の反応や、それに付随して認識される自己評価は、生活のさまざまな場面で無意識に再生され続けます。

そして、それに気づかないうちはそれが何よりの真実だと人に思い込ませ続けます。

 

もし、無意識に認識され続けられる自己評価がとても高いものあれば、そうでない人に比べ、どれほど人生が容易くなるでしょうか。

人生を困難にするその重いハードルを抱えた人は、ハードルが軽そうな人を見て、自分もそうなりたいと願います。

 

だからそのために、もっと強くなろう、或いは上手く防御をしよう、そうすればそうなれる気がするし、周りもそう言っている。

「今、変われば良いんだよ。過去なんて関係ないよ。」と。

 

だけど実際は、過去に囚われていない人など誰もいません。

ハードルが軽い人は、重いハードルを背負う場所に、運命的に生まれ育たなかっただけです。

囚われの種類が、自己否定なのか自信なのかそんな違いだし、それらはいずれにしても真実ではありません。

人の肉体は、そんな真実でないものに基づいています。

 

ですが、それを苦しみの言い訳にしては自分のためにはなりませんから、大切なことは、理由を探すことではなく、事実に気づきハードルという幻想の囚われから自らを開放してあげることではないでしょうか。

そのためには、過去に形作られたままの自分を疑い、ありのままの自分に気づくことが何よりの近道だと私は思っています。

 

恐れや不安はどこから

 

もちろん、これは過去を否定し、捨て去る作業ではありません。

真の自分に気づくことは、そこに辿り着くまでの道程としての過去を受け入れ、昇華していく作業です。

苦悩を抱えてきた人ほど、苦悩の理由ではなく、苦悩の開放に必要な道程として過去を受け入れていくことは、何よりの癒しとなるはずです。

 

個人の潜在意識は、間違いだらけです。

ただ、その間違いこそが導きとなります。

ならば、私はそれに感謝し、味わい尽くし、いつしか全て手放したいと願います。

そうすることが、私にとって真の自分として生きる道であり、過去の私に、感謝という何よりも幸せな贈り物を届けることができるからです。

 

物質界に属する肉体は自己性のごく一部分であるにもかかわらず、現在のパーソナリティーはそれを自分だと思い込んでいるのです。

 

ほとんどの人は自分の感情や信念にパーソナリティーを支配されていますが、サイキカル体とノエティカル体をどのように形づくっていくか、指示するのはパーソナリティーのほうです。

※サイキカル体(感情を司る)ノエティカル体(思考を司る)

 

自己性のこうした表現こそ、ジョシュアが私たちに「自分を捨てなさい」(新約・マタイ16-24)と求めた理由です。

そうすることによって私たちは、真実の自己をより理解できるからです。

エソテリック・プラクティス―キリストが遺した瞑想法とエクササイズ

エソテリック・プラクティス―キリストが遺した瞑想法とエクササイズ