道の途中で

生き辛さを抱える人へ。真のスピリチュアリティに学ぶ癒しと生きかた。

地面を固める

人々はいつも地面に積む何かを探してる。

時に背伸びをしながら。

私はいつもしゃがんで足元にある地面を固めてる。

 

「ねえ。地面ってあるのが普通なのかな。」

「そんなのあたり前だよ。だってずっとここにあったんだから。変な人。それより立って、もっと素晴らしいものを探さなきゃ。」

 

私は彼らの地面の上に積まれたものを「素敵だな。」と思う。

だけどこの地面に比べたら、やっぱりどうでもいいことなんだ。

 

私の地面は風に揺らぎ、雨に流される。

嵐の後には、それはすっぽりと無くなってしまうように見える。

だからまた固める。何度も何度も繰り返し。

そうしながらそれがずっとここにあったことを信じたいと願うんだ。

 

彼らは時にとても疲れているように見える。

「いくら地面に積んでもすぐに飛ばされてしまうんだよ。」

だってそれはあなたのものじゃないでしょう。

「いや、あれは僕のものだったよ。」

それはいつからいつまで?

 

地面がここにあることがどんなにかけがえのないことなのか彼らは知らない。

それはあることがあたり前だったから。

 

私は地面に何を求めてきたんだろう。

地面は何度も私に教えてくれた。

それはあなたの魂の内にずっとあるんだよと。

私はそれを信じたいと願うんだ。

だから、しゃがんで何度も地面を固め続ける。

 

彼らが積んでは飛ばされてしまうものと同じように、この地面もいつか崩れる。

この地面もまた私のものではない。

だけどそのときようやく私は知るのかもしれない。

私の地面が、時に揺らぎながら流されながら何度も教えてくれたものだけは不変であることを。

そしてこの世の何よりも尊いものであることを。

二元の世界で一元を知る

この世は二元だと言う人がいます。

大と小、男と女、長と短、光と闇。

確かにそれらは存在しています。

だけどそれをジャッジメントしているのは、全て思考です。

 

そしてスピリチュアルではよく波動が高い、低いと言われます。

ネガティブはいけません。

常に波動を高く、ポジティブでありましょう。

何のために?幸せになるために。

では何が幸せなのでしょうか。

条件において移りゆくものにほんとうの幸せ、安らぎはありますか?

 

闇が、ネガティブが、波動の低さが人を苦しめるのでしょうか。

そしてそもそも苦しみとはあってはならないことなのでしょうか。

 

二元を二元たらしめているのは、全て思考です。

私たちがジャッジメントをしなければ、それらはコインの表と裏に過ぎません。

火があって水があるように、苦しみの裏に喜びがあり、闇があるから光がある、ただそれだけです。

 

中国の陰陽説では、地球上のあらゆる要素はこの世界を構成するために全てが必要なものだとしています。

 

これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。

森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。

 

重要な事は陰陽二元論が、この世のものを、善一元化のために善と悪に分ける善悪二元論とは異なると言う事である。陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。

Wikipediaより

 

二元とは性質の分類に過ぎず、本来全ては一元(善一元ではなく)であることを示すものです。

 

もちろん憎しみ、怒り、悲しみ、妬み、怒りといったエネルギーは重くのしかかり、波動を低くします。

ですが、問題はその感情や波動そのものにあるわけでは無いのです。

私たちがそれらを許し受け入れるとき、全ては世界を構成する一部分となり一元のエネルギーへと変換されます。

 

大切なことは許しではないでしょうか。

そして許しとは、相手や何かの対象に向かい行われるものではなく、それが在ることをただ内に受け入れていくことです。

溜飲を下げることや痛みを抑え退くことではなく、そのものを理解することです。

そしてそれらの理解は、愛無くしては成し得ません。

 

全ては愛だと言われるのはそういうことなのかもしれません。

無条件の愛は私たちを分離から開放します。

二元の世界を一元へと変えていきます。

そして平安とは常にそこにあり、そして今ここにあるのです。


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蕾を育てる

小学生の頃、作文で小さな賞をもらったことがありました。

確か3年生くらいだったかな。

私は小さな頃からとても愛情に飢えていて、だから知恵を振り絞って一生懸命に文章を書きました。ただ誰かに認められたい、それだけのために。

 

出来上がった文章はとてもあざとく大げさな言葉で綴ったものでしたが、先生はそれを「素晴らしい。」と大いに褒めてくれ皆の前で読み上げました。

 

学校からの帰り道、私は少しだけ期待していたのかもしれません。母に褒めてもらえることを。だけど母は、

「上手く取り入って。本当にみっともない。」

そう私のほうには目もくれず言いました。

 

私は穴があったら入りたい気持ちでいっぱいでした。ひた隠しにしたかった心を見透かされてしまったように感じました。

こんな風に人に取り入ることすらしてしまうほど愛されず愛に飢えている、そんな心を。

 

私はずっと自分を恥じてきました。

その恥とは何だったのか、今考えてみると、自分が愛されない存在だという認識を自ら抱いてしまっていたことだったのだと思います。

愛にこんなにも飢えていることを隠したくて、まるで満たされているような振りをいつもしてきました。

そしてそれはそのまま母の姿でもあったように思います。

 

愛とは自分の外側にあるようにいつも見えます。

だけど外側にある愛は、内にある愛の反映なのです。

 

内が愛に満たされていないとき、足りないと感じているとき、外側に反映される愛とはその足りない部分を補うものでなくてはならなくなります。

もちろんそれが補えることは決して無いのですが。

 

そしてそれは親子関係において特に顕著となります。親は子どもに自らを投影するからです。

虐待は連鎖すると言われるのは、そういうことです。

与えられなかった、満たされない愛を子どもに反映させる。愛の無い言葉、拒否、支配、否定、時には暴力さえも、親にとっては自らの愛を満たそうとする言動に過ぎないのです。

そしてそれは、子どもが「ただ愛し愛されたい。」そんなあたり前の感情すら抑圧しなくてはならない状況を作り出すのです。

 

多くの人が忘れていることは、愛とは自分の内にあり自らがそれを育てていくということです。

愛は誰かに与えられることで始めて備わるものではなく、生まれたときからその蕾はこころの中心に在ります。

 

だってもし私たちが無から生まれ、この肉体だけを自分とするなら、愛を与えられなかった者はほんとうの愛など知る由もありません。

もしそうならこの苦しみや悲しみは一体どこから生まれるのでしょうか。

 

痛みの経験は、その蕾に覆い被さり見えなくしていき、私たちはその蕾がここにあったことをいつしか忘れていきます。

だから掘り起こすのです。

蕾に被さってきた過去の感情のひとつひとつを受け入れ愛するとき、それらが決して蕾の成長を阻害しようとしていたのではなく、本当はそれをただ守りたかっただけだったということに気づきます。

そしてその苦しみや悲しみの経験こそが、蕾を育て美しい花をこころの真ん中に咲かせるちからを私たちに与えてくれるのです。

 

私たちのやるべきことはただ間違えないこと、きっとそれだけなのです。

無い愛を探すのではなく在るものを信頼すること。

それは私たちのこころの真ん中に過去も今もそしてこれからも、いつも在るのですから。

暗闇が教えてくれたこと

先日ヒプノセラピーを受けた時に、小さな頃の私(インナーチャイルド)に会った。

その時、小さな私が言った言葉は

「ここ(この世)に来たくなかった。(あの世に)帰りたい。」

だった。

 

これまで、私なりに幼い頃の感情に寄り添ってきたつもりだったし、傷を理解し癒すことで世界への認識や自己認識はとても大きく変わってきた。

それでも、無かった愛をあったことにはどうしてもできないのだと思う。

 

小さな私は真っ暗な暗闇をもがいてもがいてやっと生きてきた。それは確かなのだ。

例えそれが自分で選んだことだったのだとしても。気づけなかった愛がもしかしたら側にあったのだとしても。

 

本当はきっと愛されていたんだよ、そうでなければ生きては来られなかったよ、もしそうだったとしてもそんなことどうだっていい。

小さな私の目に映る世界のどこにもほんとうの愛は見えなかった。それは変えられないし、変える必要もないのだと思う。

 

何故なら今、私はもう暗闇にはいない。

そしてこれからも光を失うことは無い。もし、私の周りをまた闇が包むようなことがあったとしても。

それは、あの頃の小さな私が真っ暗な中を一生懸命生きてきてくれたからだ。

 

絶望が、苦しみが、悲しみが、私に教えてくれた。私は闇に学んだ。本当に大切なことを。

小さな私は信じていたのかもしれない。

いつか自分の歩く道が光に繋がることを。

いつか私が繋げてくれることを。

 

セラピーに必要なことは、喪失を埋めてあげることだろうか。

目を凝らさないと見つからないほどの愛を過去に見つけてあげることだろうか。

そうじゃないと私は思う。

喪失を喪失としてたくさん涙を流してあげることだ。

その痛みの強さが愛を教えてくれる。

かたちを変え失われる愛ではなく、決して消えることのない愛を。

それを見つけていくこと、それを心に灯し続けていくこと以上の癒しはきっと無いのだと思う。

 

「ここ(この世)に来たくなかった。」

うん。それほどに苦しくて恐かったんだ。

だからこそ私は知ったよ。

あなたがどうしても手にしたかったものの素晴らしさを。

 

私はその光を灯し続けていきたい。

それが過去の私にしてあげられる最大の感謝だ。

そしてその灯火が、同じように暗闇を生きてきた誰かが内なる光に気づくための小さな標となれば。

そう願って止まない。

スピリチュアルであること

ヒプノセラピーを学んでいるのですが、先日先生に、

ヒプノセラピーエビデンスに基づいたきちんとした学問、心理学の領域でありスピリチュアルとは違いますから。」

と伝えられた。

 

あぁそうだよねと思った。

私だって、おそらく今一般的に認識されているようなものがスピリチュアルと呼ばれるのなら、きっとそう言いたくなると思う。

 

多分一般的なスピリチュアルへの認識はこんな感じ。

何だかよく分からない夢のような世界、都合の良い世界、非現実的、逃避の世界。または霊能力など目に見えないものを見る特別な能力を持つこと、またはそんな人。

 

だけどスピリチュアルということばの本来の意味はこう。

霊的であること。

神、精霊、霊、魂、精神的なものごと。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB

 

霊ということばも一般的にはオバケや幽霊のようなものを連想されるかもしれないが、そうではない。

肉体でなく魂(ハート)であること(とき)というような意味。

 

人は誰でもこのふたつの部分を持つ。

肉体と魂(ハート)。言い換えれば自我と真我。

だから本来スピリチュアルはとても現実的なもの。

そしてこのふたつを理解することで、この世界で起こっているあらゆる出来事を解明することができる。

 

自我とは「私」という概念の全て。

この肉体、名前、性別、職業、アイデンティティから所有しているモノ、コト。過去の経験による認識まで。

もっとあるかな。とにかく私を私と定義づけるもの全て。

そして真我とはその定義づけを全て取り去った部分。

私はここが人の本質だと思っている。

 

人が自我そのものであるとき、私たちは世界、他者、あらゆるものから分離をする。

分離はやがて恐れや不安、対立を引き起こし、時には世界を脅威の色に染める。

そんな世界の中で生き延びるためには、感情や感覚を鈍らせ肉体的に強くあることが望ましい。

だから争いや戦争も、そんな世界においては何も間違いじゃない。

 

対して人が真我であるとき、私たちは分離という世界から開放される。

そこに自他との境目はなく全ては今ここに存在するだけ、いわゆるワンネスの世界。

争いや対立という概念すら無い。何故なら失われるものなど無いのだから。

 

肉体を持って今ここに生きる私たちはそのどちらに偏り過ぎてもこの世界では生きていけない。

自我ばかりが優位になれば、争いの絶えない世界となりやがて人は破滅へと導かれるだろうし、真我ばかりが優位になってもまた、この生命を繋いでいくことは難しくなる。

 

人の心の内の葛藤もこのふたつのせめぎ合いが引き起こす。

守り、時に戦わなくては崩壊するもの(自我)を守るのか、ただ幸せ(愛)を求めていく(真我)のか。

 

どちらが正しいというものではなく、きっとどちらも正しい。そして必要なんだ。

だけど、私たちはこれからどちらをより意識的に選んで行こうか。

 

それでも真我(愛)を選ぶということは容易いことではない。

肉体のこの目は、私という分離をいつも映し出すのだから。

だから神に学ぶ。真我の真の姿を。

自我をなだめ落ち着かせ、真我へとその手綱を手渡す術を。

 

私は選び、意識的に魂(真我)を生きるということがスピリチュアルだと捉えている。

そして私もそう生きていきたい、そう心から願う。


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意識が世界をつくる

スピリチュアルではあなたの意識が世界をつくるとよくいわれる。

これは確かにその通りなのだろうと思う。

だけどその世界とは目に見える条件やモノ、出来事のことではないと私は思っている。

 

例えば幸せ。幸せって何だろう。

たくさんの人が幸せは外側からやってくると思っている。

ある条件が揃うこと、心配が何も起こらないこと。障害となるものがないこと。何か素敵なものを手に入れること。

 

もし私が、そんな条件をクリアすることが幸せだと信じるならそれが私の幸せとなり、そうでないときは不幸せとなる。

目の前の出来事に一喜一憂し、運命にコントロールされる世界。

それが私の生きる世界となる。

 

もし過去にたくさんの傷を追い、その傷を誰かに傷つけられたから、だから私はこんなにも苦しい。

そんな意識を信頼するなら、この世界は常に誰かに傷つけられ、そして時には誰かを傷つけてしまうようなとても危うい世界。

心に防具とナイフを構え続ける世界。

私はそんな世界で生きる。

 

もし私が常にできごとを、そして自分と相手をジャッジメントで裁くのなら、私の意識はこの世界には、そして私には罪があると理解する。

間違いに怯え、罪を背負い、与え、裁き裁かれる世界。

私はそんな世界で生きる。

 

どんな世界もきっと正しい。

自我にとっては。

傷つき、弱く、間違い、征服され、守らねば失われるかもしれない儚いもの。

そんな危うい私を少しでも長く生き長らえさせるためには意味のある世界。

だけど、きっとほんとうの幸せはそんな世界とはほど遠い。

 

もし、私が誰からも傷つけられず、誰にも支配されず、奪われるものなど何もないのなら、一体何を求めるのだろうか。

与えられた全てを無条件に信頼し愛しみ、心のままに今ここを生きる以上の喜びなどあるのだろうか。

 

それはきっと誰もが心の奥深くで求めている幸せなのではないかと思う。

例えこの世に生きて誰からもそう教わらなかったとしても、不思議なことに魂はそんな幸せをずっと前から知っている。

 

人の意識はパーフェクトだと思う。

心の内を完全に投影した世界をこの目の前につくり出していく。

例え同じ景色や誰かが目の前にあったとしても、その形も色もそして意味も、全てを私という意識のかたちに変化させ、ここに映し出していく。

 

その世界のひとつひとつを噛み砕き、理解し愛することでしか世界は変わらない。

だけどそれは自我のちからでは到底不可能だ。

 

だから私は自我の目を閉じ、魂に戻り、神(無条件の愛)に従う。

もし私がその意識を選ぶのなら、それは傷つけ合うことも奪われることもない世界。

全てが気づきと学びとなる世界。

運命にも条件にもコントロールされることの無い、ただひとつ確かな世界。

 

私はその世界をここにつくりたい。

リアルから分離された場所ではなく、私が生きるこの世界にそれをつくりたい。



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肉体の神、魂の神

生物としてはとても不思議なことだけど、全ての人間は肉体的には完全に無力で生まれてくる。

産まれてすぐには歩くことはもちろん、自分の身体を自由に動かすことすらできない。

やがて何とか身体は自由に動かせるようになっても、命の危険から身を守ったり自分で生きるための食物を得ることはもちろんできない。それも何年もの間。

その間は、親または養育者の保護によってのみ子どもは生かされる。

そして正にその間に人間の意識の90%近くを支配すると言われる潜在意識が確立される。

 

だから潜在意識の中では自分という肉体を生かしてくれた親は神なのだ。

そしてその仕組みに気づかないうちは、その意識に従って誰もが生きていくことになる。

 

アダルトチルドレンのさまざまな症状、摂食障害や依存症などで苦しんでいる人は、その神(親)の教えに意識を従わせたままなのだ。

意識に繰り返し刻み込ませてきた、自分には何かが足りないと、もしくは何もかもが足りないという情報に従いその不足を補う何かを求め続けている。

だけど、魂はずっと気づいている。

自分という魂に何も不足などないことに。だからそれらの行為に苦しみが生まれる。

 

人の意識のほとんどを支配すると言われる潜在意識、その強大な支配をゆるめるにはそれを凌駕するほどの完全な真実が必要だ。

だけど、この世の目に見えるどこに真実などあるのだろう。

 

だから私たちは意識の上で肉体を脱ぎ捨てる必要がある。

肉体という衣を脱いで、魂という完全で永遠で決して傷つくことのない自分に戻る。

その時意識は、肉体を守ってくれたかりそめの神(親)から、魂が従うべき本当の神へと自然にその信頼を移行させていく。

そして自分には何も不足はなかったことをようやく意識が理解する。

 

だけど足りない自分を求め続けてきた長い時間、そして苦しみは決して無駄ではないと私は思う。

その苦しみや痛みの経験の中でこそ、人は無条件の愛(神)の偉大さや信頼を無意識に学んでいる。

そしてそんな意識もまた、この潜在意識の一部にきっと強く強く刻み込まれてきたのだから。