道の途中で

生き辛さ、依存性や不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

「全ては愛」ということばの意味

スピリチュアルでよく言われる「全ては愛」という言葉、一般的にはとても誤解のある言葉だと思うし、私もずっと苦手だった。

特にこころの中が困難でいっぱいになっているときには、それはただ様々なものごとから目を反らすだけの薄っぺらい言葉のように感じてしまう。

 

「愛」とは何だろうか。

異性に感じる愛、家族に感じる愛、友人に感じる愛、他者から与えられる愛、物質への愛、自分の外側にあるそれらは常に変動する。かたちや大きさを変え、また時には消滅する。

 

だけどもし私たちが内側に神さまを見つけ、神さまをきちんと理解するなら、その愛は不変であり不滅であり無条件であり完全なものだ。

そして私たちは、誰もがその完全なる愛の存在を知っている。例えそれに触れたことが肉体の記憶に無くても。

 

この世に生まれて、愛のない場所で育った人も、条件を満たさないと与えられないものが愛だと、或いは従うことが愛だと教えられてきた人も、相手から気まぐれに与えられるものが愛だと学んできた人も、本当は皆知っている。自らが知るそれらが完全なそれではないことを。

だから探し続けるのだ。唯一のほんとうを。

 

愛が不在のとき、人は生きることそのものが愛を求めることでいっぱいになってしまう。

何故なら私たちは弱い生き物で、それ無しに生きることは困難だから。

愛があり初めて、この世界を、自分を、他者を信頼することができる。

そうしてようやく自分を生きることができる。

 

愛は目に見えないから、物質世界に生きる私たちはいつも間違える。

目に見えるもの、地位が、名誉が、条件の整った自分が、誰かの愛情が、それらが得られないから目に見えないもの(神であり愛)に逃避するのだと。

本当は逆なのだ。

愛の不在が、私たちを目に見える何かや誰かに縋らせる。

 

内なる神の愛は、生きることの力の全てを与えてくれる。

ここに生きる許しを、生きる意味を、生きていく安心を。

それが「全ては愛」ということばの意味なのだろうと思う。

 

全ては内側に備わっている。

だからもうここにあるそれを見つけ、求めれば良い。

最初は頼りなく弱々しく見えたその繋がりが、深くしっかりと結ばれるようになるまで。

いつか自分がそのものになるまで。

ゲシュタルトの祈り

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

ゲシュタルトの祈り wikipediaより)

人と人との境界線はとても難しい。

多くの人が誰かに傷つけられることを、誰かを傷つけてしまうことを怖れながら生きている。

私はこの境界線を引くという作業がとても下手だったと思う。

自分の言動が時に相手を傷つけてしまうと、また相手の言動が私を傷つけるのだと信じて疑わなかった。

だから、いつも相手の感情を読み、相手から求められる自分であろうとしてきたし、相手にもそれを求めてきたと思う。

 

だけど、実際のところそれは違う。

私の言葉があなたを傷つけた→私の言葉を聞いて、あなたは(自ら)傷ついた。

あなたの言動が私を傷つけた→私はあなたの言動を知り、私は(自ら)傷ついた。

それが正解なのだ。

 

私たちは相手に感情を強制することなどできないし、自分の感情を相手にコントロールされることなどない。全て自分が決めていること。

こう書くと、何か冷たさすら感じるかもしれないけれど、お互いがそれぞれ自分の感情に責任を持つということは、むしろお互いを尊重することだと思う。

 

と、これを書いている途中で雑誌が一冊届いた。お客様の待合用に置いている女性ファッション誌で、何となくパラパラ見てみたら、「間の良い人になるために」という記事を発見した。

相手の空気や言動全てを観察して、相手に求められる言動ができる人になろう、みたいなこのブログの内容とは真逆の記事(笑)

 

もうしばらくファッション誌系は興味がなさ過ぎて読んでいなかったけれど、あぁそうだったなぁって思った。

こうやって相手に、外部に自分を合わせて合わせて、そうできてこそ生き方上手だという記事が本当に多かったな。

そうやってお互いをはかりながら生きて、私たちは何を求めているのだろう。

 

ゲシュタルトの祈り」は人間関係の境界線がどれほど素晴らしいものかを、私たちに教えてくれる。

踏み込まないからこそ、ありのままの相手の姿を見ることができるし、ありのままの自分でいられる。

その人間関係の美しさを教えてくれるものはとても少なかった。

 

私はもうそうやってしか人と関係を築いていきたくはないと今は思う。

何故ならそれこそ、依存のない本来の愛という関係なのだから。

繰り返されることばを

考えてみるとものごころがついた頃から、私の頭の中はいつも自分に対する否定的なことばでいっぱいだったように思う。

「きっと失敗する。あなたには価値がない。ほらまた間違えた。」

何かに挑戦する時も、その最中も、いつもそんなことばと戦いながら何とかこなしてきたし、それが当たり前だと思っていた。

 

もし何かを成し遂げたとしても「そんなこと大したことじゃない。そんなことで良い気になるな。みっともない。」頭の中の私はそう呟く。

だから何を手にしたとしてもそれはとても容易く価値のないものに見える。

そうやって私はずっと生きてきた。それを真実だと思いながら。

 

自分を変えたい、そう思うときまず人は行動や結果や何か目に見えるものを変えることにどうしても目が向いてしまう。

それを変えられないが故にこんなに苦しいのだと思い込んでいるし、巷に溢れる情報の多くが私たちをそちらの方へ向かわせる。

ほらこれを手にすれば、あなたもこうなれば幸せになれるよと。

 

だけど、何を成し遂げ、何を手にしたところで苦しみは変わらないことにいつか気付く。

ならば今度は心を変えれば良いのかもしれないと思い始める。求めすぎるのがいけないのかもしれない。小さなことに感謝をして過ごせるようになればきっと苦しみから開放されると。

 

だけどそれもまた一時的なもので、潜在意識なんてそう簡単に変わるものじゃない。

スピリチュアルの世界では、潜在意識こそがあなたを導き、幸せにすると私たちに説くものも多い。だけどその幸せの中身をよくよく覗いてみると、結局は同じ物質的な引き寄せだったりする。

 

そうじゃないのだと思う。

答えはいつも自分の中にある。

自分の内に揺るぎない愛を見つけること。

愛というとたくさん誤解があるけれど、外側にある有限の愛ではなく、内にある無限の愛に気づくことだ。それは誰の中にも必ずある。

そして、肉体の目を閉じてその愛の視線で自分をみることだ。

 

肉体の目はいつも、あるものでなく無いものだけを見続けようとする。

これまでの人生で積み重ねてきたさまざまなことは、本当に本当に価値がなく小さなことだったのだろうか。

今手にしているものたちは本当に些細な、くだらないものなのだろうか。

 

そして、もし私と同じように、自分への憎しみのことばでいっぱいになりながら今まで生きてきたとしたら(多分これを読んでくれている人の多くがそうだろうと思う。)それほどの暗闇の中でも何とか光を見つけようと足掻いて生きてきたあなたは、本当にか弱く価値のない存在なのだろうか。

 

大切なのは、その大いなる目線に、自分の中心にいつも戻ってくることなのだと思う。

 

私の頭の中の声は、この先も止むことはないのかもしれない。それがこの肉体という乗り物の性だから。

だけど今の私は選ぶことができる。

その声を選ぶのか、大いなる声を選ぶのか。

過去の幻想ではなく、今ここに語りかける愛の声を私は選んでいきたい。

神さま、どうかいつもあなたを選んでいけますように。

自分を捨て真の自分と出会う

私たちの肉体は、どんなに歳をとっても、どれほどの経験を積み重ねても、幼少期に培った記憶からは離れられないのかもしれません。

その時期に繰り返し感じた体や心の反応や、それに付随して認識される自己評価は、生活の全ての場面で無意識に再生され続けます。

そして、ほとんどの人がそれを真実だと思い込んでいます。

 

その無意識に認識され続ける自己評価が高く心地良いものであれば、そうでない人に比べどれほど人生が容易くなるでしょうか。

人生を困難にするそれらのハードルをたくさん抱えた人は、ハードルが少ない人を見て、自分もそうなりたい、何とかそれを乗り越えたいと願うのです。

もっと強くなれば、上手く防御をすれば、過去を乗り越えれば、そうなれるような気がするし、周りもそう言っている。

今を変えなさい、過去を引きずるのはやめなさいと。

 

だけど、おそらく過去を引きずっていない人など誰もいないのです。

引きずっていないと思っている人は、その軽さ故に引きずっていることに気づいていないだけ。

それほど人の肉体というものは、過去の経験に基づいてしか生きられないものです。

 

ならばハードルをたくさん抱えた人はこのまま苦しみながら生きていかなくてはならないのでしょうか。

それは違います。絶対に。

 

ただ気づくことです。本当の自分に。

経験も思考も自己認識も、それは本当のあなたでしょうか。それは全て過去の経験の反射に過ぎない、あるように見えて実在しないものです。

肉体も過去に基づいた潜在意識の塊であり、私たちを運ぶ乗り物に過ぎません。

 

もし、潜在意識がどうやってももう修復できないくらいにボロボロならば、私はもうそれを脱ぎ捨てて生きていきたいと願うのです。

だって「私」はそこにはいないから。

そうすることだけが私にとって真の「私」に出会い、生きる道なのだから。

 

物質界に属する肉体は自己性のごく一部分であるにもかかわらず、現在のパーソナリティーはそれを自分だと思い込んでいるのです。

 

ほとんどの人は自分の感情や信念にパーソナリティーを支配されていますが、サイキカル体とノエティカル体をどのように形づくっていくか、指示するのはパーソナリティーのほうです。

※サイキカル体(感情を司る)ノエティカル体(思考を司る)

 

自己性のこうした表現こそ、ジョシュアが私たちに「自分を捨てなさい」(新約・マタイ16-24)と求めた理由です。

そうすることによって私たちは、真実の自己をより理解できるからです。

エソテリック・プラクティス―キリストが遺した瞑想法とエクササイズ

エソテリック・プラクティス―キリストが遺した瞑想法とエクササイズ

 

 

愛を学ぶ場所

よく子どもは親を選んで産まれてくると言われる。

とてもそんなことは信じられないと言う人。

自分が選んでしまったのだからしょうがない。でもこんなはずではなかったと言う人。

良い部分だけを見ようとして、満たされない自分に気づかない振りをし続ける人。

 

だけど愛の欠如は、おそらくどんなに優れた親であっても必ず起こる。

この世界で愛と愛の欠如を教えてくれるのが親であり、何よりその欠如こそが私たちを愛という道に向かわせる原動力になる。

 

人生の中で、愛に似たものをたくさん求め、手にしては失望して投げ捨てる。

繰り返し繰り返し、数えきれないくらい。

それでもそれを求め続けることができたのは、きっとその欠如があったからだ。

 

もし幼い頃、充分な愛に満たされていたらどうだっただろう。

こんなにも愛を求め、探し続けただろうか。

これほどまでに誰かに与えたいと思っただろうか。

誰もの心の内にそれを見つけたいと、どうか見つけて欲しいとこんなにも願えただろうか。

 

遠く遠く、とても手が届かないところにあると思っていた愛が、どこよりも近くにあったと知るとき、私たちは産まれてきた場所も通り過ぎた過去も自分の中に統合することができる。

行き着くところ、人は絶対的な愛を知るために試行錯誤して生きているのかもしれない。

 

私はおそらくその愛を学ぶために、この人生のこの場所を自ら選んだのだと思う。

そしてそれは間違いではなかったと今では思っている。

本当の回復とは

毒親という言葉は、「毒になる親」の著者スーザンフォワードが作った言葉ですが、この言葉が世に出たことでどれほどの人が救われたことだろうかと思います。

依存症や共依存、生き辛さなどの根本的な原因が自分ではなく、生育環境にあると知ることは、アダルトチルドレンにとって回復のきっかけになることは間違いありません。

 

回復のプロセスのまず初めの段階としては、ありのままの悲しみや怒りを感じきるという作業は必ず必要となります。

幼少期から封印してきた感情を感じきることは、ありのままの自分を認めるということが当然の権利であることだと知ること、また自分に罪はなかったのだと知ることです。

ですがそこを乗り越えたとき、毒親ということばから連想される「傷つけるもの」と「傷つけられるもの」という認識が逆に回復の妨げになることも多々あるのではないかと私は感じています。

 

ネットで毒親と検索をかけると、たくさんの記事が上がってきます。

そのほとんどが「傷つけたもの」(毒親)に対する「傷つけられたもの」(自分)の怒りや憎しみで溢れています。

自分の正当性を保つために、その怒りや憎しみを保持していくべきだという記事も多々あります。

ですが、それが本当の回復であり、人間の幸せに繋がるものでしょうか。

 

「傷つけるもの」と「傷つけられるもの」が存在するという概念は、私たちの意識に、この世界には敵が存在するのだと認識させ続けます。

その意識により、私たちは傷つけられることを、そして自分が誰かを傷つけてしまうことをずっと恐れて生きていくのです。

他者との間に壁を作り、消えない不安を抱え、人生に防御を常に必要とするのです。

 

それが本当の幸せでしょうか。

私はそうではないと思います。

本当の回復とは、傷ついた自分が自ら傷ついたのだと知ること。それは決して弱いからではなく、優しさからだったと知ること。

そして、私たちは誰かの魂を決して傷つけたりすることなどできないということを知ること。

何より、この傷ついたボロボロの姿はほんとうの自分ではないと知ること。

どんなにみずぼらしくて汚くて、もう動けないほど傷だらけに見えても、決して傷つかない魂を自分の中に見つけることなのだと思います。

 

甘いですか?

だけど、私は経験上これ以上の救いはないと思っています。

小さなころ、たくさんの抱えきれない傷を負ったものが自分の力で立ち上がり歩いていくために必要なことは、肉体的に精神的に誰かより強くなることではありません。

自分の人生に防御が必要でないと知ること、それこそが何よりの力となり回復になると私は思っています。

インナーチャイルドワークでできることできないこと

インナーチャイルドのワークは、自己認識や世界観を変えていくのにとても大きな効果をもたらします。

私もインナーチャイルドと向き合うようになったことで、自分の認識というものがいかに偏っていたのかを知り、その結果自分への信頼や自己愛を深めることができました。

 

だけど、私はそこで終わることができず、いつしかインナーチャイルドの完全な癒しを求め続けてしまっていたように思います。

苦しみや不快感を感じる度に、根本の原因に立ち返り、癒し、修正する作業を延々と繰り返し続けていたのです。

そうしてある時気がつきました。

とてもきりがないことに。

 

それでも、そうしないわけにはいきませんでした。私は心のどこかで潜在意識(インナーチャイルド)が完全に癒されることが自分の幸せなのだと錯覚していたのかもしれません。

 

それを救ってくれたのはある人の言葉でした。

「潜在意識がチャイルドで、顕在意識がお母さんなんだよ。」

その短い言葉に、私の心がどれほど救われたかとても言い尽くせません。

 

潜在意識とは何でしょうか。

以前のブログでは幼少期に作った間違いだらけの辞書とも書きましたが、それは私たちの肉体そのものと言っても良いかもしれません。

だけど、私たちの本質は肉体ではなくスピリット=魂です。

潜在意識を生きるとは、肉体を生きることに他なりません。

今ここを生きるのではなく過去を生きることです。

 

また、潜在意識(インナーチャイルド)はあくまで12歳までという幼少期に培われた古い意識です。それを完全な状態に修復していくのは不可能であると共に、あまり意味のないことなのかもしれません。

 

ならば、私たちがより良く生きていくためにできることは、生きるということの主体をチャイルド(潜在意識)からお母さん(顕在意識)に明け渡すことではないでしょうか。

もちろん、それには自身の自己認識や世界観が癒されていることが必要不可欠ではあります。

インナーチャイルドのワークは、その癒しの根本となる自己愛を得ること、また偏った認識の癖が過去にあることを知ることだけで、本来は充分なのかもしれません。

 

私はおそらくそこを間違えていました。

まるで過保護な母親のようにインナーチャイルドの痛みに寄り添いながらも、未熟なままを認めず、立ち上がるよう促し続けていたのです。

 

更に潜在意識(インナーチャイルド)を癒し続ける作業というのは、あるがままの感情を時に否定する行為にもなりかねます。

感じること(インナーチャイルド)はそのままで良いのです。

それがどんなに未熟でネガティブなものであってもしょうがないのです。

だって、それは記憶の再生に過ぎないから。

お母さん(顕在意識)はそれを受け止めるだけ。チャイルドを深く愛すれど、人生を主導させるべきではないのです。

 

そして、お母さん(顕在意識)を偽りなく良いものに近づけていくために、先人たちはたくさんの知恵をこの世界に残してくれています。

それらと共鳴することは自らの内にもその一部があり、完全なるものがあることを私たちに教えてくれます。

 

私たちの肉体は潜在意識の塊ですが、本来の私たちは潜在意識という過去の記憶ではありません。

それを知ることが、インナーチャイルドにとって何よりの癒しとなるのかもしれません。