道の途中で

生き辛さ、不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

マディソン郡の橋に学ぶ愛

スピリチュアルを学んでいると、肉体の欲望の声を内の声と間違えている事例によく出会います。

その欲望を魂の声と混合してしまうと、その欲望のままに生きることが正しいのだと人は錯覚します。

 

私が、映画「マディソン郡の橋」を初めて観たのは20代の頃でした。

当時お付き合いをしていた彼と一緒に観たのですが、観ている最中から帰り際まで何とも言えない気恥ずかしさを覚えた記憶があります。

おそらく彼も同じように感じていたのかもしれません。

お互いに映画については何も話さず、その話題を避けるようにして帰路につきました。

 

美しさも若さも失った老楽の恋、運命のと言いながら安泰を選び、楽な道に逃げる人生のようにその映画を捉えてしまった私は本当に若かったなと思います。

 

私たちは、まるで自分の人生は全て自分で描いていけるものだと、またそうでなくてはならないと教えられてきます。

もちろん、その枠組みの一部分は自分で作っていけるのかもしれません。ですが実際は、与えられるもののほうがはるかに多いのです。

 

その中で私たちはたくさんの責任を背負うことを余儀なくされます。

それは肉体としての自分と捉えれば、不本意なものが大部分となるのかもしれません。

ですが魂として捉えれば、その不本意さの中にこそ多くの学びがあります。

 

その与えられたひとつひとつを受け止めながら自らの内の本質を知り追求していくこと、それが本来あるべき人生のかたちなのかもしれません。

 

内の声を聞く、魂に生きるとは、外側に何かを求めることでは決してないと私は思います。

内が求める自分で「在る」ことだと。

ただそう「在る」ことを実現していくことだと思うのです。

 

フランチェスカはロバートと一緒になることを選ばず、目の前の責任を選びました。

いつか愛が変わってしまうことが恐いからと彼女は言いました。

ですが、それよりも彼女にそう選択させたのは、責任から逃げないという彼女の在り方です。

 

私たちは魂の学びから逃げることはできません。おそらくそこでロバートとの愛を選んだとしても、また違う環境において同様の学びが彼女にもたらされるのです。

 

自らの内にある魂の尊さを信じ、自らがありたい自分で「在る」こと。

彼女は肉体的な欲望を混合することなく、そう「在る」ことを選んだのだと思います。

 

肉体的な愛情はやがて形を失います。

ですが、魂の愛は不変的なものです。

その魂の愛の強さを信じたからこその彼女の選択に、私は心をうたれます。

人生にはたくさんの選択が迫られます。

選んだ道を後悔してしまうときもあるかもしれません。

だけど、どんな時も内の声が求める私でただ「在りたい」そう願うのです。

 

マディソン郡の橋(字幕版)

マディソン郡の橋(字幕版)

 

 

 

起こることの意味を知る

まだ幼いころ、ものごとは必然として起こり、それはただ受けとめ流れていくのを見守るものでしかありませんでした。

 

それがいつしか私たちには自分でコントロールできるもの、すべきもののように感じられるようになるのです。

そして、人はその意味を間違えていきます。

起こることの多くは、自分が道を間違えた故の罰であり試練なのだと。

 

その思考は、同時にものごとの真の核心の部分と向き合う心を停止します。

そして、その罰や試練と考えるものを少しでも遠ざけるための生きかたを模索するようになるのです。

 

だけど、それは本当に罰であり試練だったのでしょうか。

 

幼いころ、私たちは世界の一部でした。

それは全てがただそこにあり、ただ起きていたのです。

だけど成長するにつれ、私たちの思考は世界からどんどん分離していきます。

 

その分離した肉体だけが「私」となったとき、私たちには「私」以外の全てが得体の知れないものとなります。

起こることの全ては、戦わなくてはならない脅威となるのです。

 

だけど肉体を離れ、魂として考えたとき、それらは脅威ではなくチャンスになります。

試練ではなく愛となります。

 

「肉体の私」と考えれば、私は人生の半分近くを試練と罰の中で過ごしてきました。

愛情に餓えた幼少期、摂食障害や不安障害、依存性を抱えた青年期から中年期、私はその試練から逃れようとずっと足掻いていました。

 

だけど「魂の私」と考えれば、それは私にとって全てが人生に必要な手かがりでした。

愛を知り、魂の求めるものを知るために必要なチャンスでした。

私はそれに気づくことができなかった。だからそれらは必然としてずっと私の側に存在し続けたのです。

 

「肉体の私」であることは、ものごとの本質から目を反らし続けます。

私はずっと錯覚していました。

私は戦っているのだと。だけど実際は目を背け、逃げ続けていただけでした。

 

統合失調症で長く苦しんできたある女性は私に教えてくれました。

「病気はギフト」だと。

それは彼女が病気を克服したからではないのでしょう。

それが自分に与えられた本当の意味に気づいたからなのだと思います。

 

私たちには全てが与えられます。

誰もが人生で抱えるさまざまな問題、それはその人にとってどうしても必要なものです。

必要である限りは、どんなに手放そうとしても出来ないのです。

 

その問題がどこからきて何を求めているのか、内の声を聞けば必ず見えてきます。

手放すべきもの、気づくべきものが。

それを知るとき、私たちは人生において一度も試練はなかったことに気づくのかもしれません。

 

インナーチャイルドを癒す意味

インナーチャイルドを癒す、というと、現実の問題からの逃避のようなものだと思う方もいるでしょう。

私も以前はそう思っていました。

目の前の問題を解決することに向き合わず、過去に逃避や責任転嫁をすることだと。

 

だけど、インナーチャイルドを癒す本当の目的とは、目の前の問題を歪んだ潜在意識の視点からではなく、正しい視点で解決するためのものです。

逃避ではなく、正しく問題に向き合うために必要なプロセスです。

 

私たちは、通常2つの意識を持っています。

普段認識することができる顕在意識と、自分では気づきにくい深層に潜む潜在意識。

私たちが持つ固定観念や世界観のほとんどはその潜在意識が強く影響しています。

 

そしてその潜在意識の大部分が培われてきたところが、私たちがこの世界とは何かを学んできた幼少期なのです。

 

その幼少期に何らかのトラウマや痛みを経験することなく過ごしてきた方はほとんどいないと私は思います。

周りの大人から冷たい言葉や暴力などを受けてきた人もいるかもしれません。

そうでなくても、親が忙しくて充分に愛情を感じることができなかったり、親のような役割を担うことを余儀なくされてきた人もいるでしょう。

 

そこで一番問題になるのは、周りの大人がどれだけ至らなかったかではありません。

子ども自身が身を守るために、誤った世界観や自己認識を身につけてしまうことです。

 

何か問題が起きたとき、大人であればおそらく上手く対処できていたであろうことも、まだ自力で生きていけない子どもにとってはそれらを上手く対処することは困難です。

そこで子どもなりにできる精一杯の方法が、他者やこの世界やたくさんの問題、何より自分自身への愛から身を引くことなのです。

それは、幼少期において周りから子どもが受ける影響がネガティブであればあるほど、顕著になります。

 

また、その逃避の方法はそれぞれ違いますが、共通することは、それが消えない潜在意識となり私たちの思考の基盤となっていくこと。

現在の問題を対処しようとするときに、その凝り固まった潜在意識がブロックとなり、前へ進むことを困難にするということです。

 

その潜在意識は、現在の私たちがいくらがんばっても修正することはとても困難です。

ですが、それが主に培われた過去の痛みを持つインナーチャイルドを癒すことで、現在の潜在意識までをも修正することが可能になるのです。

 

インナーチャイルドの癒しの本当の意味とは、その誤った潜在意識を修正し私たちを正しい愛へと導くことです。

曇りのない目を取り戻すことです。

 

私たちは、多くの人が今の「この私」は私自身が培ってきた存在だと考えます。

ですが、私たちはいわば過去の経験の塊、潜在意識の塊です。

そして、その潜在意識の大部分は自らでは生きる力すらなかった周りの環境に与えられてきたものです。

 

今の「この私」の大部分は「与えられた私」なのです。

私たちがインナーチャイルドを癒すにつれ、その「与えられた私」は少しずつ小さくなっていきます。

そこから私たちは、本当の「私」としての人生を生きていくことができるのです。

 

和解: インナーチャイルドを癒す

和解: インナーチャイルドを癒す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奇跡は内に

私たちはいつも自分の外側に生きてきました。外側に生を求めることで、内に完全なものが与えられていることにずっと気づくことができずに。

 

外側に生を求めることは、等身大の「わたし」以上のものになることです。

「わたし」でない何かになることです。

 

この世に生を受けたときから、それを積み重ね積み重ね、そうすることが生きる正しさだと私たちは誰もがそう思い込んでいきます。

 

人生に打撃を、大きな傷を受けたとき、多くの人は更に「わたし」以上の「わたし」になることを求めます。

そして打ちのめされ打ちのめされ、ようやく気づきます。

そこに正しさなどなかったことに。

 

本当は最初から全てが備わっていたのです。

だけど、幼いころからずっと繰り返し染み込ませてきた怖れという強硬な潜在意識は、それを認めることをまるで敗北のように私たちに捉えさせるのです。

だけど、それは本当に敗北なのでしょうか。

 

外側への生を手放すとき、私たちは生きる意味が一体何なのか分からなくなるような錯覚を受けます。

だけど、私たちの内は知っています。

それぞれの生の本当の意味を。

その声を本当に聞くことができるのは、外側への生を手放したときです。

それを手放したとき、その声は沸々と沸き上がる留めどない情熱のように心を包み、私たちは既に答えがそこにあったことを知るのです。

 

また私たちが普段視界で捉えているものは、ほんの小さな一部に過ぎず、ありのままの美しさでもありません。

 

長い間不安障害を抱えてきた私は、自宅近くにある大きな橋が苦手で、そこを車で渡ることをずっと恐れていました。

親友とランチをするためのショッピングモールに行くにはその橋を渡らなくてはならなくて、私はいつも予定の何日も前から怯えながら、時には耐えきれずに途中で薬を飲んで渡っていたのです。

 

そこまで不安に苛まれながらも、私は不安になる自分をずっと否定していました。

不安になってはいけない、恐れてはいけないと。

不安のない「私でない私」を求めていたのです。

 

だけど、もう限界でした。

ある時、橋の途中で私は諦めました。「ならなくてはならない自分」であることを。

神に降伏したのです。もうそうするしかありませんでした。

私は私であることを、そしてこの肉体の命も含めてあなたに全て委ねますと。

 

それは「そうあらねばならない私」への敗北でもありました。

ですが、その時、私の目にありのままの世界のあり得ないほどの美しさが飛び込んできたのです。

 

それは、まるで奇跡のようでした。

清み渡る青い空や川の水しぶき、壮大な大地、キラキラと水面を照らす太陽の光、生命の息づき。全てが完全な形でそこにあり、私を包み込んでいました。

 

それは本当はいつでもそこにあったはずなのです。

だけど、怖れの中に生きてきた私には全く見えていなかったのです。

そして不安障害を抱える前、怖れていないと錯覚して生きてきた過去においても、私は一度もあれほどの美しさを感じたことはありませんでした。

 

私たちは私たちの内面を通してしか、物事を見ることはできません。

そして、私たちが知る内面の多くは「外側への生」を正しいと見なしてきた潜在意識に潜む怖れです。

 

橋を行く多くの人は、怖れています。前の車のスピードや、仕事のトラブルや、家庭がうまくいかないこと。

誰かに傷つけられ、傷つけること。

そして何より自分というたったひとりの分離された存在に。

その怖れのフィルターをかけた景色を橋の上から見ています。

 

外側への生を手放すとき、私たちは本当の景色に気づきます。

奇跡に。本当に魂が求める喜びに気づきます。

それに気づいたとき、私たちはもうずっと内に全てが与えられていたことを知り、それを与えてくれた偉大なる神への感謝と共にこの美しい世界に溶けていくのです。

 

ヒーリングとは

ヒーリングという言葉は誰もが聞いたことがあると思います。

だけど、一般的にはその意味が大きく勘違いをされていると私は思っています。

 

多くの人は、ヒーリングそのものが問題を解決すると考えています。

それはとても心地好く、受けているうちに問題が消えてなくなっていくもののように考えている方も多いのではないでしょうか。

 

実際、そのようにヒーリングを扱うヒーラーやセラピストもたくさんいます。

私がそうしてあげます、私が助けます、と。

ですが、人を本当に救うことができるのはヒーラーではなく、ひとりひとりの内に存在する光だけです。

 

私もまたヒーリングを行う立場ではありますが、ヒーリングとはそのものが救いになるものではなく、「あぶり出し」のようなものだと思っています。

私たちはいわば過去の記憶の塊です。

私たちには、過去の人生においての様々な経験から得た記憶が埋め込まれ、それが潜在意識として人生に影響していきます。

 

ヒーリングの主な役割は、身体にピュアなエネルギーを通すことにより、その記憶や意識の中のネガティブや人生の障害になっているものを浮き上がらせるものです。

ヒーラーの役割は、それらを浮上させるためのエネルギーを繋げる、ただのパイプに過ぎないのです。

 

その問題と向き合い、癒し、意識から浄化していくことができるのは本人の内なる光だけで、またそうでなくては本当の癒しは起こりません。

 

癒しは外側にはありません。

癒しはいつも内にあり、私たちはひとりひとり誰もがその完全なる癒しの主を内に与えられているのです。

 

内面の怖れを写し出す鏡

私たちは、常に自分が今まで培ってきたフィルターを通して他者を認識しています。

そのフィルターは、過去におけるさまざまな学習から作られてきたもので、個人の歴史がひとりひとり違うように、ひとつひとつ異なるフィルターです。

 

私たちが認識している「他者」というものはそのままの姿ではなく、そのフィルターを濾過したいわば自分が作成した他者です。

 

怖れという感情をフィルターにたくさん埋め込んでいる人は、「他者」を自分の存在の多くを脅かすものと認識します。

逆に愛という感情をフィルターにたくさん埋め込んでいる人は、「他者」が自分を愛してくれる歓迎すべき存在だと認識します。

 

他にも、例えば神経質な人はマイペースな人を嫌う傾向にあります。

それはその人が、周りに合わせないといけないというような固定観念があり、自分の中にあるマイペースな部分を否定しているからに過ぎません。

 

また、男性の中で異様に「オネエ」を嫌う人がいますが、そういう方は自らの弱さを認めることを望まない方が多いように思うのです。

自らに女性的な弱い部分があることを認めたくないために、女性的な男性である「オネエ」を嫌うのかもしれません。

他者は、全て自分の合わせ鏡の存在なのです。

 

これは全ての人間関係において、もちろん親子関係においても同様です。

親子関係で悩んでいる人、親に愛されなかった、苦しめられたと感じている人も、親はあなたを憎んでいたわけでは決してありません。

親の中にある「怖れ」のフィルターを通してしかあなたを認識できなかっただけなのです。

 

私は、幼少期から大人になるまでにかけて母親に誉められたり励まされたりされたことがほとんどありませんでした。

かけられる言葉の多くが私に対する否定でした。

だから、私はずっと自分が至らない、価値のない存在であると考えてきたのです。

 

ですが、母親が見ていたのは本当は私ではなく、私の中にある認めたくない母親自身の姿でした。

母親もまた満たされない子供時代を送り、完全でなければ強くなければという怖れを持っていました。

だから私の弱さ、不完全さがどうしても許せなかったのです。

 

何故、親は私にそんなことができたのか分からない、許せない、私は絶対にあんな風にはなれない、と考える人もいるでしょう。

でもそれはあなたが過去に痛みを経験し、その苦しみを知っているからです。

あなたがその苦しみというフィルターを持っているからこそ、それがどれだけ心を傷め人生を困難にするのかを理解することができるのです。

フィルターを持っているから、親のそのような行為や思考をどうしても許せないと思うのです。

 

家族や恋人についても同様で、相手の許せない部分、気になる部分というのは、自らの許せない部分、否定したい部分でもあります。

他者はいつも私たちに自らに気づかせてくれるヒントを与えてくれます。

否定するのではなく、内面に問いかければ、目を背けたかった怖れと向き合い、それらを手放すことが私たちにはできるのです。

怖れや不安はどこから

私たちがこの世界に生まれ落ちたとき、誰もが「私」というものを知りません。

目に入る何かが、耳に流れる何かが、それが何であるかを知りません。

何も知らない赤ん坊にとって、もしかしたらその景色も「私」かもしれないし、その音も「私」かもしれません。

世界は全て「私」かもしれません。

 

どこからどこまでが「私」でどこからどこまでが「私ではない」のかを決めてきたのは、私たちの先祖さまが代々築きあげてきたこの世界のルールだけでした。

時間があり、肉体があり、存在の分離がある。

それらのルールによって、私たちはいつしかこの肉体の中に存在するものだけが「私」だと認識していきます。

 

こんなにも大きな世界の中の、たったひとつの小さな小さな肉体に閉じ込められた、この先の行方さえ知ることができないものだけが「私」だとするなら、どうして怖れや不安を感じることなく生きていくことができるでしょうか。

 

そしてまた、「私」だと感じていた肉体という入れものは、時に壊れたり、歳を重ねる毎に疲労していきます。

「私」だと信じていた小さな一部すら、私たちは自分の力で動かせなくなっていくのです。

 

ですが、本当に「私」はその肉体の中にしか存在しないのでしょうか。

そして、その肉体は本当に紛れもない「私」なのでしょうか。

 

肉体がもし「私」なら、私たちは自分の思い通りにそれを動かせるはずです。

だけど、心臓や脈や臓器たちはいつも「私」の知らないところで動いています。

私たちは誰も、それをコントロールすることなどできないのです。

 

そして、その感情が「私」なら私たちはいくらでも怖れや不安を自らコントロールすることができるはずです。

心地よいと感じられる喜びだけを選ぶことだってできるはずです。

 

またその思考が「私」なら、自らの考えも私たちはコントロールできなくてはなりません。

嫌な思考が思い浮かんだり、良いアイデアを思いついたりするとき、それは本当に「私」だけが生み出したものでしょうか。

そして思考が「私」なら、その「私」の思考を観察しているものは一体何でしょうか。

 

全ての怖れや不安はこの世界や神と「私」との「分離」という感覚から生まれます。

小さな肉体の中で、どこに行くのか、どうなるのか何も知る術がないまま、コントロールできそうな手掛かりをずっと探し続けている状態なのです。

 

だけど「分離している私」はこの目に見える世界に則った過去のルールによる認識でしかありません。

もしそのルールをとりはらうことができれば、目に見えるものの境目など私たちは知る由もないのかもしれません。

 

全ては「何」でもないのです。

だけど、全ては今ここに確実に存在しています。

「起こること」はただ起こるだけに過ぎず、コントロールなどできないし、する必要もありません。

だって全ては私たちの一部だから。一部として必要だからそこにあり、必要だから起きるのです。

 

怖れや不安は、弱いからとか力が足りないから、思考がコントロールできないからでは決してありません。

世界を信頼することができれば、それは自然に私たちから離れていきます。

 

足りないと、孤独だと、愛されないと、これは罰なのかもしれないと、そうやって自分を縛り付けてきた潜在意識のルールを解き、自らの光に気づき、本当に存在するものだけに目を向けたとき、私たちは自らがいかに祝福されていて、怖れなど必要のない存在であるかを知るのです。