道の途中で

生き辛さ、依存性や不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

インナーチャイルドを癒す意味

インナーチャイルドを癒すというと、現実の問題からの逃避だと思う方もいるでしょう。

過去の感情(インナーチャイルド)を癒やすという言葉もまた、目の前の問題を解決することに向き合わず、過去に逃避や責任転嫁をすることのように感じさせます。

 

ですが、インナーチャイルドを癒す本当の目的とは、目の前の問題を歪んだ潜在意識の視点からではなく、正しい視点で解決するためのものです。

逃避ではなく、正しく問題に向き合うためのプロセスです。

 

潜在意識と顕在意識

人の意識は、大きくふたつに分けられます。

意識と無意識。

意識とは、普段人が認識することができるもので顕在意識とも呼びます。

そして無意識とは、普段は気づかない部分にある意識です。

この無意識のうち、個人の過去の経験から培われる意識が、潜在意識と呼ばれます。

 

人の認識や思考は、この潜在意識の影響を最も強く受けています。

そして、潜在意識の大部分が培われてきたところが、私たちがこの世界と自分とは何かを学んできた幼少期から少年期です。

 

幼少期から少年期の強いトラウマが歪んだ潜在意識をつくる

その時期に、何らかのトラウマや痛みを経験することなく過ごしてきた方はほとんどいないと私は思います。

養育者から、冷たい言葉や暴力を繰り返し受けてきた人もいるかもしれません。

そうでなくても、養育者が忙しくて、または未熟であり、充分に愛情を受け取ることができなかったり、親のような役割を担うことを余儀なくされてきた人もいるでしょう。

 

そこで一番問題になるのは、その養育者がどれだけ至らなかったかではありません。

子ども自身が身を守るために、誤った世界観や自己認識を身につけてしまうことです。

 

何か問題が起きたとき、大人であればおそらく上手く対処できていたであろうことも、まだ自力で生きていけない子どもにとっては上手く対処することは困難です。

そこで、子どもなりにできる精一杯の方法が、子どもとして当たり前の未熟さと自分の感情を否定することです。

 

その否定の部分はそれぞれ違いますが、共通することは、それが消えない潜在意識となり私たちの思考の基盤となっていくこと。

現在の問題を対処しようとするときに、その凝り固まった潜在意識がブロックとなり、前に進むことを困難にするということです。

 

インナーチャイルドを癒やすことは、潜在意識の歪みを修正すること

その潜在意識は、今現在いくらがんばったとしても修正することはとても困難です。

ですが、それが主に培われた過去の痛みを持つインナーチャイルドを癒すことで、現在の潜在意識の歪みを修正しやすくしてくれます。

 

自分と世界を思い込みと誤解から開放する

インナーチャイルドの癒しの意味とは、その誤った潜在意識を見直し、曇りのない目を取り戻すことです。

 

多くの人が、今の自分は自分自身が全てつくりあげてきたパーソナリティだと考えています。

ですが、人はいわば過去の経験の塊、潜在意識の塊であり、その潜在意識の大部分は、選ぶことも逃げることもできなかった周りの環境に与えられてきたものです。

 

この肉体としての自分は、与えられた自分なのです。

インナーチャイルドを癒すにつれ、その与えられた自分は少しずつ小さくなっていきます。

そうすることで、人は本当の自分に気づき、真実だと信じてやまなかったこの世界のたくさんの誤解にも気づくのです。

和解: インナーチャイルドを癒す

和解: インナーチャイルドを癒す

 

 

 

真実は内に

私たちは、いつも自分の外側を見て生きてきました。外側ばかりを求めることで、内に完全なものが与えられていることに気づくことができずに。

 

外側に生を求めることは、等身大の「わたし」以上のものになることです。

「わたし」でない何かになることです。

 

この世に生を受けたときから、それを積み重ね積み重ね、そうすることが生きる正しさだと人はそう思い込んでいきます。

 

人生に打撃を、大きな傷を受けたとき、人は更に「わたし」以上の「わたし」になることを求めます。

そして打ちのめされ打ちのめされ、ようやく気づきます。

そこに幸せなどなかったことに。

 

本当は最初から全てが備わっていたのです。

だけど、幼いころからずっと繰り返し染み込ませてきた恐れは、それを認めることをまるで敗北のように人に捉えさせます。

だけど、それは本当に敗北でしょうか。

 

外側への生を手放すとき、それまで生きることが困難だった人ほど、生きる意味が一体何なのか分からなくなるような錯覚を受けます。

だけど、私たちの内は知っています。

自分が生きる本当の意味を。

その声を聞き、それを信頼することができるのは、外側への生を手放したときだけです。

 

私は、幼いころからいつも目の前にいる誰かと自分をはかって生きてきました。

目に入る全ての人と比べて、足りないときは自分を責めたり、或いは何か別のもので満たそうとし、逆に足りていたら安堵し、生きていることに少しだけ安心ができました。

 

いつも何か自分とは違うものになろうとしては、そうしていることを誰かに気づかれるのではないかと怯え続けました。

いつしか、私にとって自分とはとても醜く、ここに存在することをもひた隠しにしなければならない存在となっていたのです。

そんなものに、どうして生きることの手綱を手渡すことができるでしょうか。

 

だから、私はどうしても見つけなければならなかったのです。

比較ではなく、絶対的に正しく強いものを。そして真実を。

その存在だけが、醜さを、弱さを抱えて生きることを私に許してくれる、そしてかりそめの私から私を開放してくれるからです。

 

絶対的な真実は、外側にはありません。

どうかあなたの中を探してください。

 

こんなブログを書いていることすら、以前の私にはきっと想像できないでしょう。

自分の内面など、何よりもひた隠しにしなければならないものだったからです。

それができるようになったのは、強くなったからでも、何か知識を身につけたからでもありません。

自分が醜く、弱くあることを受け入れることができる強い強い存在を知り、その手綱を少しだけ手渡すことができたからです。

 

その手綱は、今でも行ったり来たりを繰り返します。

それを完全に委ねることは、この先ももしかしたらできないのかもしれません。

それでもそれを委ねていくという信頼の学びだけが、「わたしになる」ことでなく「わたしを生きる」ことを、何度も私に教えてくれるのです。

ヒーリングの役割

ヒーリングという言葉は、誰もが聞いたことがあると思います。

だけど、一般的にはその意味が大きく勘違いをされているように私は思っています。

 

多くの人は、ヒーリングそのものが問題を解決すると考えています。

それはとても心地好く、受けているうちに問題が消えてなくなっていくもののように考えている方も多いのではないでしょうか。

 

実は、実際にそのようにヒーリングを扱うヒーラーやセラピストもたくさんいます。

私が助けてあげます、私ならできます、と。

ですが、人間はもともとそんな方法で救われるようにつくられてはいないと私は思っています。

 

人を本当に救うことができるのはヒーラーの力ではなく、真の自己との確かな繋がり、信頼だけです。

苦しみの多くは、こころの中心が外側に向いているからであって、それを真ん中に戻すことが何より大切です。

 

私もまたヒーリングを行う立場ではありますが、ヒーリングとはそのものが救いになるものではなく、自己との愛や信頼を繋ぐための気づきのサポートに過ぎません。

 

人の肉体はいわば過去の記憶の塊です。

過去の人生において、様々な経験から得た記憶が埋め込まれ、それが意識として人生に大きく影響しています。

そして、そのことに気づかないうちは、真の自己ではなく、過去という囚われに投影された自己のままで生きていかなくてはなりません。

 

ヒーリングの主な役割は、身体に神聖なエネルギーを通すことにより、自己との繋がりの障害になっている記憶や意識を浮き上がらせることです。

そしてそれらのエネルギーは、ヒーラーが作り出すのではなく、万物に与えられたものです。

 

その問題と向き合い、癒し、意識から浄化していくことができるのは本人の完全なる意識だけで、またそうでなくては本当の癒しは起こりません。

 

癒しは外側にはありません。

人は何かを足すことで、または誰かに、ヒーラーに足してもらうことで幸せになるのではないのです。

足すものなど何もないという真実を信頼していくこと、それに優る幸せなどないのではないでしょうか。

癒しはいつも内にあり、人は誰もがその完全なる癒しの主を、初めから与えられているのです。

人は傷つけられない

人は、常に自分が今まで培ってきたフィルターを通して世界を、他者を認識しています。

そのフィルターは、過去におけるさまざまな学習から作られてきたもので、個人の歴史がひとりひとり違うように、ひとつずつ異なるフィルターです。

 

あなたの見ている世界は本物ですか

 

人はフィルターを通して他者をみている

私たちが認識している他者は、その人のありのままの姿ではなく、そのフィルターを通した、いわば自分が作り上げた他者です。

 

もし、そのフィルターに恐れの感情がたくさん埋め込まれていたら、人は他者のことをも、自分の存在の多くを脅かすものと認識するでしょう。

逆に、その感情が安心なら、他者もまた自分を脅かすことのない信頼すべき存在だと認識されます。

 

例えば、神経質な人はマイペースな人を嫌う傾向にあるように思います。

それはその人が、相手ではなく、自分の中のマイペースな部分を否定しているからなのでしょう。

 

また、男性の中には「オネエ」を嫌う人が多くいますが、そういう方は自らの弱さを認めたくないからなのかもしれません。

自らに女性的な弱い部分があることを否定したいために、女性的な男性である「オネエ」を嫌います。

このように他者は、全て自分の合わせ鏡の存在です。

 

親が持つ子どもへの認識は、親自身の恐れの投影

これは全ての人間関係において、もちろん親子関係においても同様です。

親子関係で悩んでいる人、親に愛されなかった、苦しめられたと感じている人も、親はおそらく本当にあなたを憎んでいたわけではありません。

親の中にある恐れのフィルターを通してしか、子どもを認識できなかったのです。

 

私は、幼少期から母親に誉められたり認めてもらえることがほとんどなく、かけられる言葉の多くが私に対する否定でした。

だから、私はずっと自分が至らない、価値のない存在であると考えてきたのです。

 

ですが、母親が見ていたのは本当は私ではなく、私の中にある未熟さ、弱さを自分の認めたくないそれらの部分と重ね合わせていただけだったのです。

 

答えは全て自分の中にしかない

それでも、多くの人はそのことに気づいていません。

自分がこんなに傷ついたり苛立つのは、相手のある部分が悪いからだ、と何とかそれを変えさせようとしたりします。

だけど、人を変えるほど困難なことは無いし、例えそれができたとしても、また違う他者に同じ恐れを投影し、傷ついたり苛立ったりを繰り返すだけです。

 

そうすると

「じゃあ私が悪いんですか?」

という話になりますが、そもそもそれは誰が悪い悪くないという問題ではありません。

 

大切なことは、「本当に自分を傷つけることは自分にしかできないし、相手が傷つくのは相手が自分で自らを傷つけただけ」という事実です。

 

「それが全て相手の問題なら、相手に何を、どんな酷いことを言っても良いんじゃない?」

と思うかもしれませんが、そもそもそんなことを本当にしたいですか?

だってそうすれば、傷つくのはまた自分なのですから。

 

人は人に傷つけられることはない

世の中には、傷つけられたということばが蔓延っています。

幼い頃からの

「人を傷つけたら絶対にダメです」

という教育もまた、その認識は正しいものだと人に植え付けていきます。

人は傷つけ、傷つけられる存在なのだと。

 

ですが、本当に自分を傷つけられるのは自分だけです。

それは、たくさん傷ついてきた人ほど、最初は受け入れ難いことかもしれません。

だけど、その事実だけが人を恐れから開放してくれます。

 

傷つくのは弱いからではありません。

そこに守りたいものがあるからです。

それは尊厳でしょうか。真実でしょうか。

ですが、それらが本当は人に侵害などされないものだと知ったら、とても生きやすくはなりませんか。

 

他者は、いつも自らの恐れに気づかせてくれる鏡です。

苦痛を感じたときに、無理やり排除するのではなく、自らの恐れと向き合うことで、自分との繋がりそのものも変わっていくきっかけとなるのです。

怖れや不安はどこから

人がこの世界に生まれたとき、誰もが自分というものを知りません。

目に入る何かが、耳に流れてくる何かが、それが一体何であるかを知りません。

 

何も知らない赤ん坊にとって、もしかしたらその景色も自分かもしれないし、その音も自分かもしれません。

世界は全て自分の一部かもしれません。

 

どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが自分でないのかを決めてきたのは、社会のルールです。

時間があり、肉体があり、存在の分離がある。

その学びがいつしか、この肉体の中に存在するものだけが自分だと人に認識させていきます。

 

こんなにも大きな世界の中の、たったひとつの小さな小さな肉体に閉じ込められた、この先の行方さえ知ることができない存在だけが自分なら、どうして怖れや不安を感じることなく生きていくことができるでしょうか。

 

そしてまた、自分だと信じていた肉体という入れものは、時に壊れたり、歳を重ねる毎に疲労していきます。

その一部すら、自分の力で動かせなくなっていくこともあります。

 

ですが、本当に自分はその肉体の中にしか存在しないのでしょうか。

そして、その肉体は本当に紛れもない自分でしょうか。

 

肉体がもし自分なら、人は思い通りにそれを動かせるはずです。

だけど、心臓や脈や臓器はいつも自分の知らないところで動いています。

誰にもそれをコントロールすることはできません。

 

そして、感情が自分なら人はいくらでも怖れや不安をコントロールすることができるはずたし、心地よいと感じられる喜びだけを選ぶこともできるはずです。

 

またその思考が自分なら、自らの考えも完全にコントロールできなくてはなりません。

 

全ての怖れや不安は、この世界との分離という感覚から生まれます。

小さな肉体の中で、この先の未来が、自分がどうなるのか知る術がないまま、コントロールできそうな何かをずっと探し続けている状態です。

 

大いなる存在への信頼だけが、人を不安や恐れから救ってくれます。

それは、人によっては母や父だったり、祖父母だったり、先祖だったり、ハイヤーセルフや霊的存在だったりするのかもしれませんが、いずれにしても、それはその人にとって自分と世界とを信頼という糸で繋いでくれる存在です。

その信頼の糸の繋がりだけが、人を前に進ませてくれます。

 

もし、あなたがその糸を肉体を持つ誰かから紡いでもらえずに育ったのなら、自分だと捉えているものを一度全て疑ってみて下さい。

そうすることで、自らの中にこそ何より信頼に値する存在があったことに気づきます。

 

肉体として触れられない、内なる神と糸を紡いでいくことは、肉体を持つ私たちにとって容易いことではありません。

ですがそれは、自分そのものも信頼へと引き上げてくれるプロセスとなります。

許すということ

「許す」というと、おそらく多くの人が嫌いなものや嫌いな人を許さなければならないと思うのではないでしょうか。

私たちは学校や社会において、まず他者を許すことを学びます。

だけど、本当に許すべき対象は何よりも自分です。

 

精神的な症状や生き辛さを抱える人は、自分を許すことがとても苦手です。

それは過去において、自分への許しが当然であり必要なものだと教えられる機会に恵まれなかったからかもしれません。

影響力のある誰かに、そのままの自分が充分に許されていると感じられないまま育ってきたからかもしれません。

 

人は無意識に役割を生きている

この世界を生きていると、人は「自分を何かの役割や枠組みにくくりつけること」を無意識にしています。

母という役割を、父という役割を、ある時は会社員として、ある時は先輩や後輩として、あるべき自分とあるべき他者という枠組みの中で人は振る舞い、その枠組みから外れるときには不安を覚えます。

 

何故、不安を覚えるのか。

その枠組みは社会が上手く機能していくためには必要不可欠なものであり、そこから排除されることは社会的な存在としての死を意味するからです。

 

生きづらさや精神的病とは

また、生きづらさや精神的な病も同様で、一定の枠組みから排除されたとき、それは初めて病として認識されます。

自分を「こうあるべき」という枠組みに入れることができず、はみ出してしまったとき、それが生きづらさや精神的病となるのです。

 

そして、その枠組みからはみ出した人は、そこに入れない自分を責め、何とかその枠組みに治まろうとします。

病院に行ったとしても、薬で、或いはさまざまな療法でその枠組みに戻そうとします。

 

ですが、もともとその枠組み自体が、自分や他者、社会が勝手に作り上げたとても不安定なものに過ぎないのです。

 

先進国と後進国でみる統合失調症

例えば統合失調症という病があります。

この病は、日本では非常にたくさんの薬を飲んでコントロールし続けなければならない完治の難しい病であると認識されています。

 

ですが開発途上国では、統合失調症という病のくくりさえありません。

時代や社会が違えば、コントロールされなければならなかったその症状すら、逆に神秘的で人々に称えられる能力にも成りうるのです。

 

諸外国の有病率を調査したときのコト、先進国では1%という結果が出たのに対して、開発途上国では

「そんな病気のヒト、いないよ。」

 

風の声を聴く人が大切にされる文化なら統合失調症という病気は存在しないのかもしれませんね。

マンガでわかる!統合失調症

マンガでわかる!統合失調症

 

精神的病を手放せない理由

私自身、本当にたくさんの精神的病を抱えてきました。

それは何故なのか。

枠組みからはみ出す自分を許せなかったからです。

 

人前では完全でなくてはならない。

間違えてはならない。

明るくいなくてはならない。

誰にでも親切にしなくてはならない。

相手を優先しなければならない。

 

さまざまな枠組みをつくり、そこからはみ出す自分を許せず排除しようとしてきました。

精神的症状は、言わばありのままで生きたい私からのSOSだったのかもしれません。

 

許せない自分が守っているもの

ですか、自分を許せないのもまた、このブログで繰り返し述べている潜在意識の働きです。

今、自分に何かが足りないからとか至らないからではありません。

 

例えば、明るくいられない自分は許せない、人前では弱さを見せられない場合、過去の経験において、明るい自分、強い自分でなければ存在価値がないと間違えて学習してきただけなのです。

 

そして、その存在価値とは何でしょうか。

人としての尊厳だったり、信頼だったり、愛情、そんなものではないでしょうか。

人が自分を許せない根底には、それら大切なものを守りたいという気持ちが必ずあるのです。

それに気づくことができたら、自分を許すことは少し容易くなりませんか。

 

自分への許しは他者への許しとなる

人は鏡だと言いますが、誰もが自分の持つ枠組みを他者にも無意識に求めています。

 

明るくいなければと思い込んでいる人は、他者が暗く落ち込むこともまた許せないものです。

自分を許していくということは、結果的に他者をも許すことに繋がるのです。

 

許すことは、枠組みをも解放していくこと

許せないというこころは、「~であるべき」という枠組みがあって初めて成立します。

逆に言うと、枠組みが何もなければ許せないという思考すら生まれません。

 

自分を許していくことは、その枠組み自体をもまた解放していくことです。

枠組みという不安定なルールから自由になることで、真の自分をより深く理解することができるのです。

 

ホ・オポノポノに学ぶ許し

ハワイの教えに、ホ・オポノポノという許しのことばがあります。

 

ホ・オポノポノ - Wikipedia

 

過去の自分を許し、和解することでありのままの自分の素晴らしさに気づいていくためのことばです。

 

問題は、外にはありません。
問題の本当の原因は、あなたの内にいるもう一人の自分『ウニヒピリ』が、 これまで溜め込んできた記憶です。


「ホ・オポノポノ』であなたは記憶を消去する方法を学びます。
そして、もともとあなたが そうであったはずの完璧で美しい 「ほんとうの自分」を生きるのです。

 

ハレアカラ・ヒューレン博士

やり方は簡単で、自分の記憶とインナーチャイルド(内なる子ども)に4つのことばを繰り返し伝えるだけです。

 

ごめんなさい。

許してください。

愛しています。

ありがとう。

 

自分への許しは、世界、他者、社会など全ての許しに繋がります。

あなたがもし自分を許すことを学ぶのなら、それは世界を変える力にも必ずなるのです。

 

間違えることが怖い

以前、何かのQ&Aの記事を読んでいたら

「間違えることが異常に怖いのですが、どうしてでしょうか。」

という投稿を目にしました。

 

その投稿に対して多くの人が

「八方美人なんじゃない?」

「人によく思われたいんでしょ。」

というような返答をしていて、私は一般的にはそう認識をされるんだなと思ったのです。

 

それは自己存在の否定からの恐れ

私の考えるそれは、自分をよく見せたい、誰からもよく思われたいというポジティブな思考によるものではないように感じます。

おそらくそれは、もっと人の存在そのものを揺るがす恐れからくるものです。

彼女は、「間違うことのない自分」でなければ自らの存在価値が危うくなるような認識を、過去に潜在意識に刷り込んできたのではないでしょうか。

 

恐れの原因の大部分は過去の刷り込み

そしてその原因のほとんどは、生育環境に起因されます。

間違いを許さない厳しい親(養育者)、または間違いをさせないよう本人より先回りしてしまうような過保護な養育者に育てられた場合、その子どもは間違いをすることに異常な恐怖を感じるようになります。

 

以前の記事でも書きましたが、自力では生きていけない子どもにとって養育者とは神さまと同等の存在です。

養育者からの子どもへの扱いや子どもに対する認識は、そのまま子ども自身の世界観や自己認識へと繋がっていくのです。

 

「間違える自分」が繰り返し養育者に否定されてきた場合、その子どもにとって「間違える自分」が存在そのものの否定となり、そのために強い恐れを感じるようになるのです。

 

潜在意識は普段意識できない意識

「とは言ってもそれは子どもの頃の話ですよね?」

そう多くの人は言います。

ですが、以前の記事でも書いたように幼少期から少年期に培われる潜在意識の影響力は、人の思考の90%を支配しています。

 

更にこの潜在意識は、普段は意識をしたりコントロールが不可能な無意識の領域なのです。

 

潜在意識は幻想である

では、恐れを克服していくためには潜在意識を変えていくことが必ずしも必要なのか、もちろんそうすることで気持ちはとてもラクになります。

ただ、それは簡単なことではありませんし、それだけが必要なのかというとそうではないと思います。

 

スピリチュアルと呼ばれるものの中には、潜在意識こそが自分であり、そこを変えていくことが幸せへの道であると唱えているものもありますが(引き寄せなどですね)私はそうとも思っていません。

何故なら、潜在意識は今は存在しない過去の学習により培われた意識に過ぎず、真実ではなく幻想とも言えるからです。

 

大切なのは、その恐れが潜在意識の働きによるものであると、また自分が潜在意識という幻想に振り回されているだけなのだと知ることではないかなと私は思います。

 

非二元論とは

そして、間違えることの恐れを変えていくために「非二元」的な世界観はとても役に立ちます。

 

非二元論とは、全ての事柄を二元に分けないという考え方です。

白黒や善悪、正しさと間違い、長いものと短いもの、ネガティブとポジティブなど、この世界の一般的な価値観は常に二元です。

ですが、この二元の中に真実はありません。

 

二元論についてはこちらにも書いてあります。

https://lotus-flower.hatenablog.com/entry/2018/09/03/155433

 

間違えることは悪ではない

この二元的考え方だと、「間違える」ことは悪であり「正しさ」が善です。

それが「悪」であるという認識が、その事柄の排除に人を固執させます。

 

ですが、全ての物事は本来は善悪では分けられません。

例えば、光と闇があったとして、この場合、一般的には光が善で闇が悪と考えられると思います。

 

ですが、光が存在するためには闇が、闇が存在するためには光が必要です。

学びを得るには、「悪」であるはずの闇がきっかけになることもありますし、夜に「善」であるはずの光が強すぎたら、綺麗な星は見えません。

このように、物事の善悪や正しさ、評価などは、常に移り変わるものです。

 

間違えることはプロセスにすぎない

「間違えること」それはただのプロセスであり、正解でも間違いでも、善でも悪でもありません。

もし、その「間違い」によって結果的に気づきが得られ、何か大きな収穫を得ることが出来たのなら、それは二元的思考の「善」や「正解」にも変わり得るのですから。

 

人が生きる上で起こることに、「間違い」というものはひとつも無いのかもしれません。

どれだけ困難な障害であっても、その時どれほど心を痛めても、人はいつかきっと全てを意味のあることに変えていくことができるのだから。

 

そして、何より内なる神との出会い、それこそが、全てはプロセスに過ぎなかったことを私たちに教えてくれるのかも知れません。

「私」という夢から覚めて、わたしを生きる: ?非二元・悟りと癒しをめぐるストーリー?

「私」という夢から覚めて、わたしを生きる: ?非二元・悟りと癒しをめぐるストーリー?