道の途中で

生き辛さ、依存性や不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

思考は私ではない

私たちはいつも思考に囚われてきました。

「そうしなければならない」

「そう感じてはいけない」

「そうあるべきだ」

 

私たちは思考が自分だと思っています。

自らの思考において良いとされるものに従うことができる、悪いとされるものに従ってはならない。

思考が自分であると考えるから、それをコントロールしなければと思い込んでいます。

 

だけど、思考はあなたではありません。

あなたであれば、あなたはそれを完全にコントロールできるはずだし、振り回されることもありません。

 

今、何か言葉をひとつ思い浮かべてください。

何が浮かびましたか?

私は「芋」でした(笑)

だけど、私は「芋」のことなんて考えようとしていません。ただ流れてきたのです。

どこから?

 

つまりその苦しみは、本当は人から受けているもので、自分の苦しみではないかもしれない。それなのに、自分のものと思い込んで、自分の苦しみに変えてしまう。 

その苦しみはあなたのものでない (SIBAA BOOKS)

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また、思考は正しいものでもありません。

思考は、私たちが生きてきた経験の中で認識してきた過去の知識そのものです。

そして、その思考の基盤となるものは、生まれてからわずか12歳までの幼少期に培われてきた潜在意識であることが多いのです。

 

思考とは、過去の知識の寄せ集めに他ならない。

思考は、決して現在である「今ここ」を知らない。

 

思考を生きることは、過去を生きることだ。

幻想を生きることだ。

過去はもう存在しないがゆえに、過去を生きることは失ったものを生きることなのだ。

そこにどんな幸福があるだろう。

?それ?は在る―ある御方と探求者の対話 (覚醒ブックス)

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私たちは、思考にあまりにも多くを求め過ぎてきたのかもしれません。

それはそこにあることをただ認めるだけ、それ以上の価値を見出すものではありません。

 

思考へのコントロールを手放すとき、それはただ浮かんでは消えていくエネルギーの流れになります。

それをただ眺めている私たちから、怖れは消えて無くなります。

 

では私たちとは何なのでしょう。

私たちは思考を眺めることができます。

私たちはその眺めている意識そのものなのではないでしょうか。

 

その意識は思考にも感情にも、肉体が発する信号にも、あらゆる経験にも振り回されることなくいつもにそこに存在します。

 

私たちはそこに、正しく揺るぎなく常に在る自らの本質を見ることができるのです。