道の途中で

生き辛さ、不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

間違えることが怖い

以前、何かのQ&Aの記事を読んでいたら「間違えることが異常に怖いのですが、どうしてでしょうか。」という投稿がありました。

その投稿に対して多くの人が「八方美人なんじゃない?」「人によく思われたいんでしょ。」というような返答をしていて、私は一般的にはそういう風に認識されるんだなと思ったのです。

 

私が思うのはそれは、自分をよく見せたい、誰からもよく思われたいというプラスの思考によるものではなく、もっと人の根本を揺るがす怖れからくるものです。

彼女は、おそらく「間違いなく正しく」あらねば自分の価値が危うくなるような認識を幼いころに潜在意識に刷り込んでしまったのでしょう。

 

その原因は、ほとんどが生育環境によるものです。

間違いを許さない厳しい親、または間違いをさせないように本人より先回りして決断してしまうような過保護な親に育てられた場合、その子どもは間違いをすることに異常な恐怖を感じるようになります。

何故なら、「間違いをする自分」を親は認めてくれなかったから。

 

以前の記事でも書きましたが、自力では生きていけない子どもにとって親とは神と同等の存在であり、親の価値観はそのまま子どもの自己認識へと繋がります。

親に認められない自分は価値がない、すなわち「間違える自分」は無価値であり、否定され消さなければならない存在であると認識され、それが消えない潜在意識となり、大人になっても尚私たちを苦しめるのです。

まずそれを認識するだけでもとても心が軽くなるのではないでしょうか。

 

そして、間違えることの恐怖を変えていくために「非二元論」的な思考はとても役に立ちます。

非二元論とは、全ての価値を白黒や善悪に分けないという考え方です。

逆に二元論とは、物事を善や悪に分けて考えることです。

 

二元論的考え方だと、「間違える」ことは悪かもしれません。その場合「いつも正しくあること」が善です。

ですが、物事は本当は善悪では分けられません。

世界には闇と光があって、闇がなければ光が見えず、光がなければ闇に気づかないように、どちらが悪い、悪くないということはないのです。

 

「間違えること」はただのプロセスであり、正解でも間違いでも、善でも悪でもありません。

だって、もしその「間違い」によって結果的に気づきが得られ、何か大きな収穫を得ることが出来たら、それは二元論的思考の「善」や「正解」にも変わり得るのです。

 

私たちが生きる上で起こることに「間違い」はひとつもありません。

そして、神は私たちに試練を与えることはしません。神が与えてくれるのは愛だけです。

どれだけ困難な障害であっても、その時どれほど心を痛めても、全ては意味のあることです。

全ては本来の自分に気づき、受け入れていくための欠かせないプロセスなのです。

 

 

「私」という夢から覚めて、わたしを生きる: ?非二元・悟りと癒しをめぐるストーリー?

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