道の途中で

生き辛さ、不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

怖れや不安はどこから

私たちがこの世界に生まれ落ちたとき、誰もが「私」というものを知りません。

目に入る何かが、耳に流れる何かが、それが何であるかを知りません。

何も知らない赤ん坊にとって、もしかしたらその景色も「私」かもしれないし、その音も「私」かもしれません。

世界は全て「私」かもしれません。

 

どこからどこまでが「私」でどこからどこまでが「私ではない」のかを決めてきたのは、私たちの先祖さまが代々築きあげてきたこの世界のルールだけでした。

時間があり、肉体があり、存在の分離がある。

それらのルールによって、私たちはいつしかこの肉体の中に存在するものだけが「私」だと認識していきます。

 

こんなにも大きな世界の中の、たったひとつの小さな小さな肉体に閉じ込められた、この先の行方さえ知ることができないものだけが「私」だとするなら、どうして怖れや不安を感じることなく生きていくことができるでしょうか。

 

そしてまた、「私」だと感じていた肉体という入れものは、時に壊れたり、歳を重ねる毎に疲労していきます。

「私」だと信じていた小さな一部すら、私たちは自分の力で動かせなくなっていくのです。

 

ですが、本当に「私」はその肉体の中にしか存在しないのでしょうか。

そして、その肉体は本当に紛れもない「私」なのでしょうか。

 

肉体がもし「私」なら、私たちは自分の思い通りにそれを動かせるはずです。

だけど、心臓や脈や臓器たちはいつも「私」の知らないところで動いています。

私たちは誰も、それをコントロールすることなどできないのです。

 

そして、その感情が「私」なら私たちはいくらでも怖れや不安を自らコントロールすることができるはずです。

心地よいと感じられる喜びだけを選ぶことだってできるはずです。

 

またその思考が「私」なら、自らの考えも私たちはコントロールできなくてはなりません。

嫌な思考が思い浮かんだり、良いアイデアを思いついたりするとき、それは本当に「私」だけが生み出したものでしょうか。

そして思考が「私」なら、その「私」の思考を観察しているものは一体何でしょうか。

 

全ての怖れや不安はこの世界や神と「私」との「分離」という感覚から生まれます。

小さな肉体の中で、どこに行くのか、どうなるのか何も知る術がないまま、コントロールできそうな手掛かりをずっと探し続けている状態なのです。

 

だけど「分離している私」はこの目に見える世界に則った過去のルールによる認識でしかありません。

もしそのルールをとりはらうことができれば、目に見えるものの境目など私たちは知る由もないのかもしれません。

 

全ては「何」でもないのです。

だけど、全ては今ここに確実に存在しています。

「起こること」はただ起こるだけに過ぎず、コントロールなどできないし、する必要もありません。

だって全ては私たちの一部だから。一部として必要だからそこにあり、必要だから起きるのです。

 

怖れや不安は、弱いからとか力が足りないから、思考がコントロールできないからでは決してありません。

世界を信頼することができれば、それは自然に私たちから離れていきます。

 

足りないと、孤独だと、愛されないと、これは罰なのかもしれないと、そうやって自分を縛り付けてきた潜在意識のルールを解き、自らの光に気づき、本当に存在するものだけに目を向けたとき、私たちは自らがいかに祝福されていて、怖れなど必要のない存在であるかを知るのです。