道の途中で

生き辛さ、不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

奇跡は内に

私たちはいつも自分の外側に生きてきました。外側に生を求めることで、内に完全なものが与えられていることにずっと気づくことができずに。

 

外側に生を求めることは、等身大の「わたし」以上のものになることです。

「わたし」でない何かになることです。

 

この世に生を受けたときから、それを積み重ね積み重ね、そうすることが生きる正しさだと私たちは誰もがそう思い込んでいきます。

 

人生に打撃を、大きな傷を受けたとき、多くの人は更に「わたし」以上の「わたし」になることを求めます。

そして打ちのめされ打ちのめされ、ようやく気づきます。

そこに正しさなどなかったことに。

 

本当は最初から全てが備わっていたのです。

だけど、幼いころからずっと繰り返し染み込ませてきた怖れという強硬な潜在意識は、それを認めることをまるで敗北のように私たちに捉えさせるのです。

だけど、それは本当に敗北なのでしょうか。

 

外側への生を手放すとき、私たちは生きる意味が一体何なのか分からなくなるような錯覚を受けます。

だけど、私たちの内は知っています。

それぞれの生の本当の意味を。

その声を本当に聞くことができるのは、外側への生を手放したときです。

それを手放したとき、その声は沸々と沸き上がる留めどない情熱のように心を包み、私たちは既に答えがそこにあったことを知るのです。

 

また私たちが普段視界で捉えているものは、ほんの小さな一部に過ぎず、ありのままの美しさでもありません。

 

長い間不安障害を抱えてきた私は、自宅近くにある大きな橋が苦手で、そこを車で渡ることをずっと恐れていました。

親友とランチをするためのショッピングモールに行くにはその橋を渡らなくてはならなくて、私はいつも予定の何日も前から怯えながら、時には耐えきれずに途中で薬を飲んで渡っていたのです。

 

そこまで不安に苛まれながらも、私は不安になる自分をずっと否定していました。

不安になってはいけない、恐れてはいけないと。

不安のない「私でない私」を求めていたのです。

 

だけど、もう限界でした。

ある時、橋の途中で私は諦めました。「ならなくてはならない自分」であることを。

神に降伏したのです。もうそうするしかありませんでした。

私は私であることを、そしてこの肉体の命も含めてあなたに全て委ねますと。

 

それは「そうあらねばならない私」への敗北でもありました。

ですが、その時、私の目にありのままの世界のあり得ないほどの美しさが飛び込んできたのです。

 

それは、まるで奇跡のようでした。

清み渡る青い空や川の水しぶき、壮大な大地、キラキラと水面を照らす太陽の光、生命の息づき。全てが完全な形でそこにあり、私を包み込んでいました。

 

それは本当はいつでもそこにあったはずなのです。

だけど、怖れの中に生きてきた私には全く見えていなかったのです。

そして不安障害を抱える前、怖れていないと錯覚して生きてきた過去においても、私は一度もあれほどの美しさを感じたことはありませんでした。

 

私たちは私たちの内面を通してしか、物事を見ることはできません。

そして、私たちが知る内面の多くは「外側への生」を正しいと見なしてきた潜在意識に潜む怖れです。

 

橋を行く多くの人は、怖れています。前の車のスピードや、仕事のトラブルや、家庭がうまくいかないこと。

誰かに傷つけられ、傷つけること。

そして何より自分というたったひとりの分離された存在に。

その怖れのフィルターをかけた景色を橋の上から見ています。

 

外側への生を手放すとき、私たちは本当の景色に気づきます。

奇跡に。本当に魂が求める喜びに気づきます。

それに気づいたとき、私たちはもうずっと内に全てが与えられていたことを知り、それを与えてくれた偉大なる神への感謝と共にこの美しい世界に溶けていくのです。