道の途中で

生き辛さ、不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

起こることの意味を知る

まだ幼いころ、ものごとは必然として起こり、それはただ受けとめ流れていくのを見守るものでしかありませんでした。

 

それがいつしか私たちには自分でコントロールできるもの、すべきもののように感じられるようになるのです。

そして、人はその意味を間違えていきます。

起こることの多くは、自分が道を間違えた故の罰であり試練なのだと。

 

その思考は、同時にものごとの真の核心の部分と向き合う心を停止します。

そして、その罰や試練と考えるものを少しでも遠ざけるための生きかたを模索するようになるのです。

 

だけど、それは本当に罰であり試練だったのでしょうか。

 

幼いころ、私たちは世界の一部でした。

それは全てがただそこにあり、ただ起きていたのです。

だけど成長するにつれ、私たちの思考は世界からどんどん分離していきます。

 

その分離した肉体だけが「私」となったとき、私たちには「私」以外の全てが得体の知れないものとなります。

起こることの全ては、戦わなくてはならない脅威となるのです。

 

だけど肉体を離れ、魂として考えたとき、それらは脅威ではなくチャンスになります。

試練ではなく愛となります。

 

「肉体の私」と考えれば、私は人生の半分近くを試練と罰の中で過ごしてきました。

愛情に餓えた幼少期、摂食障害や不安障害、依存性を抱えた青年期から中年期、私はその試練から逃れようとずっと足掻いていました。

 

だけど「魂の私」と考えれば、それは私にとって全てが人生に必要な手かがりでした。

愛を知り、魂の求めるものを知るために必要なチャンスでした。

私はそれに気づくことができなかった。だからそれらは必然としてずっと私の側に存在し続けたのです。

 

「肉体の私」であることは、ものごとの本質から目を反らし続けます。

私はずっと錯覚していました。

私は戦っているのだと。だけど実際は目を背け、逃げ続けていただけでした。

 

統合失調症で長く苦しんできたある女性は私に教えてくれました。

「病気はギフト」だと。

それは彼女が病気を克服したからではないのでしょう。

それが自分に与えられた本当の意味に気づいたからなのだと思います。

 

私たちには全てが与えられます。

誰もが人生で抱えるさまざまな問題、それはその人にとってどうしても必要なものです。

必要である限りは、どんなに手放そうとしても出来ないのです。

 

その問題がどこからきて何を求めているのか、内の声を聞けば必ず見えてきます。

手放すべきもの、気づくべきものが。

それを知るとき、私たちは人生において一度も試練はなかったことに気づくのかもしれません。