道の途中で

生き辛さ、依存性や不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

自分を捨てて真の自分と出会う

私たちの肉体は、どんなに歳をとっても、どれほどの経験を積み重ねても、幼少期から少年期に育まれた潜在意識からは離れられないのかもしれません。

その時期に、繰り返し感じた体や心の反応や、それに付随して認識される自己評価は、生活のさまざまな場面で無意識に再生され続けます。

そして、それに気づかないうちはそれが何よりの真実だと人に思い込ませ続けます。

 

もし、無意識に認識され続けられる自己評価がとても高いものあれば、そうでない人に比べ、どれほど人生が容易くなるでしょうか。

人生を困難にするその重いハードルを抱えた人は、ハードルが軽そうな人を見て、自分もそうなりたいと願います。

 

だからそのために、もっと強くなろう、或いは上手く防御をしよう、そうすればそうなれる気がするし、周りもそう言っている。

「今、変われば良いんだよ。過去なんて関係ないよ。」と。

 

だけど実際は、過去に囚われていない人など誰もいません。

ハードルが軽い人は、重いハードルを背負う場所に、運命的に生まれ育たなかっただけです。

囚われの種類が、自己否定なのか自信なのかそんな違いだし、それらはいずれにしても真実ではありません。

人の肉体は、そんな真実でないものに基づいています。

 

ですが、それを苦しみの言い訳にしては自分のためにはなりませんから、大切なことは、理由を探すことではなく、事実に気づきハードルという幻想の囚われから自らを開放してあげることではないでしょうか。

そのためには、過去に形作られたままの自分を疑い、ありのままの自分に気づくことが何よりの近道だと私は思っています。

 

恐れや不安はどこから

 

もちろん、これは過去を否定し、捨て去る作業ではありません。

真の自分に気づくことは、そこに辿り着くまでの道程としての過去を受け入れ、昇華していく作業です。

苦悩を抱えてきた人ほど、苦悩の理由ではなく、苦悩の開放に必要な道程として過去を受け入れていくことは、何よりの癒しとなるはずです。

 

個人の潜在意識は、間違いだらけです。

ただ、その間違いこそが導きとなります。

ならば、私はそれに感謝し、味わい尽くし、いつしか全て手放したいと願います。

そうすることが、私にとって真の自分として生きる道であり、過去の私に、感謝という何よりも幸せな贈り物を届けることができるからです。

 

物質界に属する肉体は自己性のごく一部分であるにもかかわらず、現在のパーソナリティーはそれを自分だと思い込んでいるのです。

 

ほとんどの人は自分の感情や信念にパーソナリティーを支配されていますが、サイキカル体とノエティカル体をどのように形づくっていくか、指示するのはパーソナリティーのほうです。

※サイキカル体(感情を司る)ノエティカル体(思考を司る)

 

自己性のこうした表現こそ、ジョシュアが私たちに「自分を捨てなさい」(新約・マタイ16-24)と求めた理由です。

そうすることによって私たちは、真実の自己をより理解できるからです。

エソテリック・プラクティス―キリストが遺した瞑想法とエクササイズ

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