道の途中で

生き辛さ、依存性や不安を抱える人へ。スピリチュアルが私に教えてくれたこと。

ゲシュタルトの祈りに学ぶ人との関わり

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。


もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

ゲシュタルトの祈り wikipediaより)

 

人と人との境界線はとても難しく、多くの人が誰かに傷つけられることを、誰かを傷つけてしまうことを怖れながら生きています。

私もまた、この境界線を引くという作業がとても下手でした。

自分の言動が時に相手を傷つけてしまうと、また相手の言動が私を傷つけるのだと信じて疑わなかったし、だから常に相手の感情を探り、相手から求められる自分でありたいと、また相手にもそうあってほしいと求めてきました。

 

他者の言動にどれほど影響を受けるかは、全て自分が決めている

ですが実際のところ、人が他者の感情をコントロールすることはできません。

もちろん、他者の心無いことばで傷つくことはありますが、その時傷つくか傷つかないかを決めているのは、全て自分です。

例え、同じことばをかけられたとしても、傷つく人もいれば全く傷つかない人もいるからです。

 

傷つくのは弱いからではない

そうすると感受性の強い人は、些細なことで傷ついてしまう自分を責めたり、感情をシャットダウンして傷つかないよう防御をしようとしたりしますが、そもそも傷つくことが悪いことだという認識こそが間違いです。

 

傷つくのは弱いからではなく、守りたい大切なものがあるからです。

例えば、尊厳であったりプライドであったり、自分らしさであったり、かたちはさまざまですが、それらが求めているものは内にある愛です。

 

人が、その愛にどれほどの希望や宝を見い出せるのか、それは感受性の強さとも比例します。

それを守りたいが為の傷もまた、弱さではなく思いの強さ故のものです。

 

傷つく気持ちはかけがえのないもの

この世界では、弱肉強食こそ正しい価値観だと長く信じられてきました。

ですが、人というひとりひとり違う個性を持つものを、ひとつの価値観に収めようとする社会に限界が来ているように私は感じています。

 

それに弱肉強食が正しいとしても、どんなことばにも傷つかないこと、自分が暴言を口にする痛みを知らないことは、本当に強さでしょうか。

キリストは

「右の頬をぶたれたら左を差し出しなさい。」と言いました。

このことばの意味は諸説ありますが、相手への憎しみは人を救わない。弱きものでいられることが真の強さであること。

何故ならあなたが本当に大切にしているものは誰からも傷つけられはしないのだから、ということばのように私には思えます。

 

自分の感情に責任をもつ

自らの感情は自分だけのもので、その責任は相手にではなく全て自分にあります。

相手の言動は、その感情を自らが引き出すための引き金に過ぎません。

 

だからと言って、感情を排除する必要もないのだと思います。

感情に良い悪いなどなく、苦痛な感情の発生も大切な何かを守りたいという意味を持つからです。

そして、その感情が求めていることは、その大切な何かが決して失われないものだという理解だけです。

 

感情に責任を持つとは、自らの感情をコントロールすることではなく、お互いへのコントロールと責任を相手に求めないことだと私は思います。

 

依存のない関係こそお互いをひきだすもの

巷に溢れる情報の数々は、どうすれば相手の気持ちを変えられるのか、相手が求める自分であるには、というものばかりです。

ですが、それらは思いやりや愛情に見せかけたコントロールであり依存です。

 

ゲシュタルトの祈り」は、あるがままの人との関わりの美しさを教えてくれます。

私は、もうそうやってしか人と関係を築いていきたくないのです。

あるがままの自分でいられる、あるがままの相手の姿を愛せる、それが私にとっての最も幸せな人間関係だからです。